【1月24日 MODE PRESS】服は本来、生きていくためのユーティリティ(有用性のあるもの)であった。体温調節機能に乏しいほ乳類である人間が地球上の大半の場所でも生きていける唯一の動物となり得たのは、まさに服という道具を発明したからに他ならない。

 その後服が発展し、体温調整という機能だけでなく、権威性や集団への帰属を表明するような記号性を持つようになり、さらに階級の表現として大きく発展した。現在のファッション衣料の源流は、欧州の貴族文化に由来している。それが20世紀に入り、中流階級の拡大に伴い大量生産の大衆消費財として成立するようになった。「差別的な貴族の気分を味わえる大量生産大量消費材」という極めて矛盾する存在、それが現在のファッション衣料の根幹にある。だから、ファッションは根本的に、他人と自分を区別し、競争的な気分にさせる要素を常に内包する。

 さらに言えば、ファッションの階級差別的快楽は他人との格差の上に成り立つという邪悪さをはらんでいる。その邪悪さをきちんと凝視しない限り、ファッションの抗いがたい悪魔的魅力の根源も見えてこない。そしてファッションは、悪魔的な誘惑に満ちているからこそ妬ましくも面白い。

 本来は命を守る大事なユーティリティとして誕生した衣服が、大量生産大量消費の時代に入り、安く瞬く間に消費されるものとして製造・流通されるようになる。つまりコモディティ(日用品)化が進む。ましてやこのグローバル経済の中、より安い賃金の生産者を世界中に追い求め、巨大ファスト・ファッション・カンパニーは、終わりなき価格破壊を突き進めた結果、服がコインで買える時代になった。そして服をかごやカートに入れてまとめて買う時代が到来した。

 マーケッティング戦略の第一人者である早稲田大学商学学術院教授の恩蔵 直人氏は、現在のコモディティ化についてマーケッティング情報誌『perigee』第14号でこう語る。

 「コモディティは“日用品”という意味で、麦やトウモロコシなどの農産物、金属や石油などの原材料・エネルギーを指す言葉です。こういった商品は、元々差別化という概念がなじまない商品なんです。ところが、最近は本来、差別化されるべき商品にも、差別化が困難な状況が出てきました。こうした状況を“コモディティ化”と呼んでいます」

 「企業の技術水準が同質化し、各ブランドの差別化ポイントが次第に乏しくなってきた。消費者にとってはどのメーカーの品を購入しても大差のない状態になっている。それが今だと思います」。
※参照リンク(1)

 早稲田大学商学学術院教授の守口剛氏は、コモディティ化の問題点を『日経Biz アカデミー』の記事「グローバルマーケッティング講座:コモディティ化市場への対応策」で次のように語る。

「この(コモディティ化が進む)状況になると、製品の差別化が困難となり、顧客が製品を選ぶ基準が価格や買いやすさだけになりやすい。このような現象がコモディティ化であり、この状況が進むと価格競争が激化し、業界全体が利益を出しにくい体質になってしまう。」※参照リンク(2)

■ファッション・デザイナーすらもコモディティ化される

 一方でコモディティとして消費されるのは服だけではない。それはファッション・デザイナーも消費材となっていると警句を発するのは、「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」紙の著名なファッション・ジャーナリスト、スージー・メンケス。彼女が2012年2月26日の「We Are All Guilty for This Mess(私たちすべてがこの混乱を引き起こした)」という挑発的なタイトルの記事の中で、ジョン・ガリアーノのディオールからの解雇、当時のラフ・シモンズのジル・サンダーからの解雇など、大手メゾンのデザイナーが次々と入れ替わる状況に対して、このように述べている。

「この大混乱を最も被っているのはデザイナーたちだ。彼らは、大企業を喜ばせるために、買われ、そして捨てられる。その理由は長い歴史を誇るブランドの経営陣も、アイスクリームやヨーグルトを売ってきたビジネスマンに取って代わられているからだ(※筆者注:ユニリバーのアイスクリーム部門から転職しグッチの新社長になったロバート・ポレットと、ダノン・グループでヨーグルト製品を担当しルイ・ヴィトンの社長に転職したジョルディ・コンスタンスのこと。ただしコンスタンスは健康上の理由でわずか一ヶ月で退任)。

 デザイナー自身も、この新たなビジネスの約束事の勇気なき犠牲者であり、自らコモディタイズド(消費される)ことを選んだ。弁護士を付け、目が飛び出るような報酬とハリウッド・スターのような扱いを獲得する。そして現代美術が飾られた豪華なアパートメントに住み、ショウ、お店のオープニング、ミッドシーズンのコレクション発表、セカンドライン、メディアの取材、広告撮影をこなし、世界中を飛び回って、常に笑顔を振りまかなければならない。そのダンスは止まらない、デザイナーが壁にぶつかり、そこから転げ落ちるまでは。」

■日本の高品質コモディティという特殊商品

 衣服もファッション・デザイナーもコモディティとして消費され捨てられる。それがファッションのひとつの未来だとしたら、何の希望も持てないような気がするが、コモディティとしてのファッション、特にファスト・ファッションは最もイノベーティヴな商品という側面もある。ユニクロのヒートテックやドライ素材などがどれだけ人々の生活を変えたかと考えるとわかるだろう。

 株式会社東レ経営研究所客員研究員で有限会社シナジープランニング代表取締役の坂口昌章氏は、その日本のコモディティ・ファッションの特殊性をこう説明する。

 「日本市場の特徴は、一億総中流と呼ばれるほど均質な市場でありながら、微細な差異にこだわる点にある。アメリカ市場のように他人と同じ服では嫌だが、ヨーロッパのような他人と全く異なる服も嫌う。共通したトレンドの中で、微細な差異を楽しむのである。一億総中流市場は、全体として高級化が進んでいった。90 年代までの日本市場は、階層化することなく、圧倒的多数の中間層全体が豊かになった。その結果、高品質なコモディティ商品という、世界にも類を見ない特殊な商品が生まれた。」※参照リンク(3)

 経済産業省の平成22年4月のレポート「今後の繊維・ファッション産業のあり方」もこう述べている。

「ラクジュアリーブランドに代表される超高級品でもなく、量産・低価格でもない、中間的な 「第3のカテゴリー」ともいうべき衣料・ファッションを提供している日本。経済発展に伴うアジアの人々の所得の底上げ、中間層の増加は、日本のアパレル独自の 「第3のカテゴリー」を売り込む大きなチャンスではないか。」

 日本が生んだ「高品質なコモディティ」であり「第3のカテゴリー」としてのファッション、それはファッションの大きな可能性なのではないかと思う。

 そして、服の原初的なユーティリティ、体温調整の道具としての役割も永遠になくならないどころか、激しく進化し続けている。ユニクロのフリース、ヒートテック、ウルトラライト・ダウン、ドライシャツだけにとどまらず、スポーツファッションの分野ではナイキの風や雨から体を保護するシールドストレッチラミネートファブリックや体を温めるハイパー・ウォーム、様々なスポーツ/アウトドア・ブランドで使われるゴアテックスなど、服のユーティリティの技術革新は止まらない。考えてみれば、僕らが小さい頃にはフリースも軽量ダウンジャケットも存在しなかったのだから、いかに日常の衣服も変遷したかと思う。

 服は今までも、そしてこれからも人間が生きていく上での体温調整のユーティリティであり続ける。

■ギャルソン川久保玲の第三の道

 では、グローバル経済の中でますますコモディティ化するファッションと、本来の生きるためのユーティリティとしてのファッション以外の道は何があるのだろうか。そう問われると多くの人は、デザイナーズ・ブランドやラグジュアリー・ブランドがあるはず、と想起するだろう。

 だが、それらへの人々の関心が大きく下がってきている現状をこの連載ではつぶさに検証してきた。デザイナーによる奇抜な創作やこれ見よがしな高級感というのは、ソーシャルメディアが急速に普及し、着る人本人の人となりが可視化され、中身化されている現在では、もはや重要な価値を持たない。ファッションで多くを語らせようという姿勢は、今や現在的ではない。もちろん、いくつかの伝統ある高いクラフトマンシップに支えられたブランドは生き残るだろう。それは一過性の流行に翻弄されない高級家具ブランドや高級オーディオ・ブランドが生き残っているように。ただ、90年代のようなラグジュアリー・ブームが再び先進国の中流階級で起きるとは想像しがたい。

 しかし、もうひとつの道があるだろうと僕は思う。それは道具や意味を超えたもの、もっというと「よくわからないもの」という価値として生き残るということだ。こちらの服の方が安い、暖かい、着易いとか、さらにはお金持ちやセクシーに見えるというような現世的な価値を超えたものとしてのファッション。それを乱暴に例えると「宗教」として残ると言えばいいか。人類は、実は服の発明の時から、服に機能以上の超越的な願いを込めていた。服は人間を動物から人間に足らしめるマジカルなものだったのだ。それは世界中の様々な古代文明の遺品からも見て取れる。服は誕生の時点から、コモディティであり、ユーティリティであり、そして宗教だった。その系統の現在の代表格、それは間違いなく川久保玲率いるコムデギャルソンに違いない。そしてコムデギャルソンは常に「よくわからない」からこそ、生き延び続けている。【菅付雅信】

プロフィール
編集者。1964年生れ。元『コンポジット』『インビテーション』『エココロ』編集長。出版からウェブ、広告、展覧会までを“編集”する。編集した本では『六本木ヒルズ×篠山紀信』、北村道子『衣裳術』、津田大介『情報の呼吸法』、グリーンズ『ソーシャルデザイン』など。現在フリーマガジン『メトロミニッツ』のクリエイティヴ・ディレクターも努める。連載は『WWD JAPAN』『コマーシャルフォト』。著書に『東京の編集』『編集天国』『はじめての編集』がある。
(c)MODE PRESS

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【関連情報】 過去の記事はこちら
第1回「ソーシャルメディアは見栄を殺す」
第2回「ファッションはもはや“速い言葉”ではない」前編
第2回「ファッションはもはや“速い言葉”ではない」後編
第3回「イメージ優先の社会から中身化する社会へ」
第4回「服からライフスタイルへの移行がはらむ問題」