長崎に残る「中国的な趣」とはどんなものか
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【2月5日 CNS】江戸時代、長崎は日本唯一の外国に開かれた港であった。多くの中国商人が貿易のために船で長崎を訪れ、地元では「唐人」と呼ばれていた。それから数百年の間、中国人たちは長崎に石造りのアーチ橋や「唐寺」を建て、次第に完全な中国人コミュニティを形成していった。
当時、中国人たちはなぜ日本を訪れたのか?彼らの「遺産」は現在どれほど残っているのだろうか?
中国人歴史学者で大阪経済法科大学名誉教授の華立(Hua Li)氏は、最近の取材で「中国人が日本に渡った歴史は長いが、近代では長崎、神戸、横浜の3都市が日本に渡ってきた中国人の最も重要な居住地となり、その中でも長崎は中国人居住の歴史が最も長い都市だ」と話している。
明と清の時代が入れ替わる頃、長崎に渡った中国人の多くは海上貿易に関係していた。長崎にある4つの「唐寺」(興福寺、福済寺、崇福寺、聖福寺)は、300年から400年の歴史がある。これらの寺院は、中国の同郷の人たちが商売や生活のために組織した「郷党組織」(三江幇、泉州幇、福州幇、広東幇など)が寄付金を集めて建立したものだ。
長崎の「唐寺」の特徴は、仏像と媽祖(Mazu、航海と漁業の守護神で、中国沿海部を中心に信仰を集める道教の女神)の両方を祀っていることで、異国の地で暮らす中国人たちの心の支えとなってきた。
19世紀半ば、西洋諸国が日本に開国を迫り対外開放港が増えるにつれ、中国人の居住地は分散し始め、横浜や神戸などで居留中国人の数が急増し、新たな重要な居住地となった。しかし、日本における中国人コミュニティの発祥地である長崎は、依然としてかけがえのない歴史的地位を占め、今日でも重要な影響力を保っている。
長崎は日本で最初に中国領事館が開設された場所であり、現在でも「唐人の跡形」が至る所で見られる。特に長崎の文化風習や社会生活は、例えば毎年秋に開催される「長崎くんち」のプログラムの一つ「龍踊り(じゃおどり)」は、中国人が旧正月を祝うために唐人屋敷で披露した「舞竜」が起源と言われている。
また、例えば、新暦の8月に行われる日本の「盂蘭盆会(うらぼんえ)」の長崎独特の風習に、亡くなった親族の霊を乗せた紙船を海に流す「精霊流し」があるが、これも当時の長崎の華僑が春に行っていた「彩舟流(さいしゅうながし)」の習慣が受け継がれたものだ。
また、長崎で春節(旧正月、Lunar New Year)に開催される「長崎ランタンフェスティバル」は、毎年大変な賑わいを見せ、毎年数十万人の観光客が訪れる。
さらに、食文化では、肉や魚介類、野菜をさっと炒めてから麺を入れて煮込む「長崎ちゃんぽん」が有名だ。この料理は19世紀末に長崎に住んでいた福建(Fujian)出身の華僑が考案したものと言われている。もともとは日本にいる中国人留学生や労働者のためのものだったが、今では長崎を代表する麺料理として日本全国で根強い人気がある。
長崎の華僑や華人の団体は、中国の歴史的文物を長年ずっと大切にし、保護に力を入れてきたが、その努力は県や市からも支持されている。
最近の日本の観光立国政策で、観光経済の振興が図られる中で、「唐人の跡形」が長崎の重要な文化的な「名刺」として注目を集め、長崎で暮らしていた当時の中国人の歴史とそれに関連した文物の文化的価値は、大いに宣伝され、両国の友好と往来を促進する原動力となっている。(c)CNS/JCM/AFPBB News