【2月16日 AFP】キューバ・ハバナ支局に入って行ってすぐに目に入ったのは、今も使えるコンディションで入り口の横の棚に乗っかっていた、米アンダーウッド(Underwood)社製のタイプライターだった。

 こうした歴史の遺物をキューバで見つけることには驚かなかった。米国製の1950年代のビンテージカーから、ロシア製の1970年代のサイドカー付きオートバイ、そして古風な看板に至るまで、ここは過去の品々をよく目にする国だからだ。それは、この島国が何十年も米国の経済制裁を受けていて、住民たちはどこかよその国でずっと前に捨てられた色々な物を使っているからだ。

 でも、私は好奇心をそそられた。このタイプライターにはどんなストーリーがあるんだろう?どんな秘密があったんだろう?この丸い文字盤で、どんなスクープが打たれたんだろう?

 今年の1月で、キューバ革命(Cuban Revolution)から60年を迎えた。昨年9月に私が支局長としてハバナへ赴任した直後から、このキューバ革命60周年のための特集企画をわれわれは準備してきた。

 アンダーウッドのタイプライターの語られざるストーリーにひかれて、私は調べ始めた。革命のリーダー、フィデル・カストロ(Fidel Castro)が、米国を後ろ盾とした独裁者フルヘンシオ・バティスタ(Fulgencio Batista)大統領を打倒し、勝利を宣言した歴史的な1959年初頭の数日を、AFPはどのように報じたのだろうか。今はオフィスの飾り物になっているこの古いタイプライターで、AFPの記者たちは配信記事を書いたのだろうか。

キューバ革命直後の一連の記事を書くのに使われたアンダーウッドのタイプライターと昔の記事。(c)AFP / Adalberto Roque

 私は仏パリの本社の資料保管室に、当時のAFPの記事を全部送ってくれるよう頼んだ。1959年1月1日、キューバ革命に関する一連の報道は、1行の速報から始まっていた。「バティスタ大統領が出国」。カストロ時代の第1報となるこの歴史的な速報を打った記者は誰か、突き止めるのは簡単だろうと思った。だが、私はなんとも間違っていた。

 今では速報でも記事でも、AFPのすべての配信には執筆した記者と編集者のイニシャルが入っている。しかし当時は記事に署名がなく、タイプライターで打たれた原稿にイニシャルはなかった。

 ジャン・ユトー(Jean Huteau)という記者が、この謎を解く鍵になるだろうということは分かっていた。2003年に亡くなったユトーは、1960年にハバナに初めてAFP支局を開設した人物だ(その後、彼は出世の階段を駆け上がり、AFPの編集部門の最高位のポスト「情報部長」になった)。だが、1959年の段階で彼がすでにキューバの地を踏んでいたのかどうかは定かでなかった。それで私は調査を始めた。

 最初の一歩は、送られてきた古い記事を全部読むことから始まった。

革命軍が駐留していたキューバ東部で、川を馬で渡るキューバ革命の指導者フィデル・カストロ(1958年12月撮影)。(c)AFP / Ho

 当時の記事のスタイルは今とは少々異なっていた。現在でもわれわれが引用する公式発表に加えて、「信頼できる情報源」の話、そして「政治的、軍事的性質のおびただしい数のうわさ」に触れていた。一部の詳細は驚くほど精確だった。例えば、バティスタの側近の一人は「僧侶に変装して、ある外国の大使館に逃れようとした際に逮捕された」とあった。

 時に記者たちは、飛び交う情報にいら立ってもいるようだった。ある記者は「すべてのうわさ話の真偽を検証するのは、非常に難しい」と書いていた。

 オフィスから出て取材に行くことは、今と同じく当時も大きな価値を生んでいた。1月8日には、1人の記者がフィデル・カストロの革命軍についてマタンサス(Matanzas、ハバナの東の街)に入り、その場でカストロ自身との「独占電撃」インタビューに成功。「あごひげを生やしたその顔は今や伝説となった」と記した。

 ユトーを知っている人物にも連絡が取れた。インターネットで見つけることができた彼の娘、マリアンヌさんがパリ近郊に住んでいた。だが、話を聞こうとして会うとすぐに釘を刺された。キューバでの仕事について、父親のユトーは決して詳しく語らなかったというのだ。「父は色々な物事を人と分かち合わない世代の人でした。自分が前面に出ることはありませんでした」

1959年1月8日、首都ハバナへ凱旋(がいせん)するフィデル・カストロ(右)と、キューバ革命のもう一人の指導者カミーロ・シエンフエゴス。(c)AFP

 マリアンヌさんによると、第2次世界大戦(World War II)が勃発したとき、ユトーは医学生だったが、戦後は「ブエノスアイレスで新しい生活を始めるために」フランスを離れた。

 ブエノスアイレスでは、AFPに雇われる前にフランス紙数社の記者として働き、1958年にAFPブエノスアイレス支局のストリンガー(現地協力者)となった。

「キューバ情勢が面白くなってきたときに、キューバ取材を手伝うために彼は現地へ派遣された。それ以前については情報はさほどない」と、1979年から1989年までAFPの最高経営責任者(CEO)を務めたアンリ・ピジェア(Henri Pigeat)氏は私に語った。

 ユトーはキューバでしばらく一人で暮らし、働いた。それから妻と3人の子どもたちを呼び寄せた、とマリアンヌさんは語った。それでも当時のキューバは家族で安定した暮らしを送れるような状況でなかった。事実上の戒厳令状態で夜間は外出できず、学校は閉鎖されていた。一家が飼っていたコッカスパニエル犬の「トアーニ」は、ピッグス湾事件(Bay of Pigs Invasion)の最中に逃げ出してしまった。

 当時まだ幼い少女だったマリアンヌさんは、毎日ずっと浜辺で過ごしていたことや、食べ物がなかったこと、10代の兄が革命に加わりたがったことなどを覚えていた。

 最終的にユトーの妻には子どもと一緒に米マイアミに住む許可が下りて、ユトーだけがキューバに残って仕事をした。「父はAFPのために仕事することを大変誇りにしていました。当時はニュースに記者の署名がなく、ニュースは個人の功績に結び付けるべきではないと、父は考えていました」

 1959年にAFPのジャーナリストとして記事を書き始めたユトーについて調べていくうちに、私が思いつく限りの元ハバナ支局長全員に連絡を取ることになった。そのうちの一人は、1979年から81年までハバナ支局長だったジャック・トーメ(Jacques Thomet)氏だ。彼からの返信には、ユトーから「古いタイプライターで記事を書いていたと聞いた。今もあなたの支局にあるはずだ」とあった。

キューバ東部サンティアゴデクーバにあるフィデル・カストロ前国家評議会議長の墓前で行われたキューバ革命60周年の祝典(2019年1月1日撮影)。(c)AFP / Yamil Lage

 だが、1959年の時点でユトーがハバナにいたのかどうかはまだ分からなかった。マリアンヌさんも元ハバナ支局長たちも、そうだろうと思ってはいたが、マリアンヌさんが持っていた父の古いパスポートにはその痕跡がなかった。

 AFPについて書いた共著の中でユトーは、ハバナのジャーナリスト養成校の教授だったカルロス・テジェス(Carlos Tellez)が当時、AFPと英ロイター通信(Reuters)両方の特派員として働いていたと記している(AFPは当時、英語配信を行っていなかったので、ロイターは今日のような直接の競合相手ではなかった)。

 しかし当時の記事を読み進めていくと、記事によって「AFP特派員」という署名と「特派記者」という署名があることに気付いた。もしもテジェスがAFP特派員だとすれば、謎の特派記者とは誰だったのか?

このあたりで、支局にあった古いファイルを調べることにした(この頃には私は同僚たちからシャーロック・ホームズと呼ばれるようになっていた)。何年も開かれていなかった引き出しの前にあった椅子をどかし、ほこりをふいて…ある日、「受信した書簡」と書かれた大きな黄ばんだファイルホルダーに行きついた。

 手紙に目を通すうちに、私は調査の最初の目的が何だったかをほとんど忘れかけていた。そこに現れたもう一つのキューバ、もう一つのAFPを垣間見るうちに迷子になってしまったのだ。

首都ハバナの街中の壁に書かれた、革命防衛委員会(CDR)に言及した「革命を守り続ける」というスローガン。革命防衛委員会は1960年にフィデル・カストロが創設した(2018年3月20日撮影)。(c)AFP / Yamil Lage

 例えばユトーは、AFPの「情報管理局」という部署から定期的に書簡を受け取っていた。その中では、彼が書いた記事と競合他社の記事を綿密に比較した評価が書かれていた。1961年3月の通信には「全体的には、貴殿の記事は良質で、完結しており、明快だ」とあった。「内容から期待できるほど常に配信結果が良いわけでないとすれば、それはハバナ-ニューヨーク間の送信でかかる遅れによるものだとわれわれには思える。1時間以内で済むことはまれで、大抵は2時間以上かかる」。今日、われわれはパリ本社の国際編集室の編集長や地域ごとの編集長からのフィードバックを通常、電話で受けている。

 1961年8月19日の通信はさらに興味深かった。「拝啓 貴殿の要請により…情報管理室では、貴殿の元原稿とわれわれが受信した配信記事を慎重に比較した」。おそらく当時ユトーは、実際のAFP配信を受信しておらず、編集後の自分の記事を読めていなかったのだろう。それで、ハバナから電報で送った自分の記事が改変されているのではないかと疑ったのだ。パリ本社からの手紙は、彼の疑念が事実だったことを認めていた。「われわれは、表現のトーンダウンから文体の変更まで、数多くの改変を認めた。複数の記事のテキストの一部では、隠匿や、偏向的な部分の置き換えなども見受けられた」

 例えば、「反カストロ部隊」という言葉はキューバ政権が使用していた「傭兵」という用語に、「共産主義」指導者は「左派」指導者に置き換えられ、「食糧不足」に関する記述は丸ごと消えていた。

 ユトーは2003年の国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団(RSF)」とのインタビューでも、この一件についてまだ憤慨していた。彼は改変を行ったと思われる米ウエスタンユニオン(Western Union、編集部注:当時は通信業が主業だった)の現地従業員に対してだけではなく、パリにいたAFPの同僚に対しても怒っていた。「私は怒り心頭だった。それに、パリの同僚たちが一瞬でも、私がこういった文を書くと思ったとはとても信じられない」

 1959年1月にキューバに樹立した新政権は、すでにその段階で外国メディアに疑心を抱き始めていた。カストロ議長は世界中から350人の記者たちをバティスタ元大統領支持者らの裁判に招いたが、簡易化された裁判に国外から批判が集まると早々に失望し、テレビとラジオでの裁判の放映を禁止してしまった。ユトー自身も新政権に、許可なくハバナから出ることを禁止された。

ハバナのモロ・カバーニャ軍事歴史公園に展示された1962年、キューバ危機時に配備された旧ソ連製ミサイル「ソプカ」(2012年10月11日撮影)。(c)AFP

 これらの書簡を読み通したことは貴重な体験だった。今日、われわれが書く記事は、リリース後にキューバ外務省が慎重に目を通し、彼らはためらわずに不快感を伝えてくるが、記事自体はそのままパリへ送られており、ウエスタンユニオンの親政権派の現地従業員に改変されることもない。だが、首都ハバナの外へ出かける予定があるときには、いまだに当局に通知して行くことが賢明だと言えるし、公務員(大臣から警官、医師に至るまで)にインタビューするときには必ず、外務省の外国プレスセンターの事前承認が要る。

 黄ばんだフォルダにあった書簡には、興味深い過去を知ることができる断片がたくさん詰まっていたが、カストロ政権樹立後、最初の数か月の記事を、AFPの誰が現地から書いたのかという私の疑問には答えがなかった。1通の手紙からは、ユトーがAFPのために、9月にハバナへ到着したことが分かった。だが、彼の前には誰がいたのか?

 あきらめかかっていたとき、中南米地域全体の編集長だったイブ・ガコン(Yves Gacon)氏から突然メッセージを受け取った。

「カストロが勝利した後、1959年最初の3か月間にキューバに派遣されたのは当時、AFPの政治外交部のトップだったジャン・アラリー(Jean Allary)だ。彼はその年の6月に、コロンビアのボゴタとペルー・リマ間を移動中に飛行機事故で亡くなっているので、彼の活動期間がいつまでだったかを正確に言うことができる」

 キューバ新政権の最初の記事を書いた謎の記者が誰だったのか、私はついに突き止めた。飛行機事故での死から間もなく後にユトーが代わりを務めることになる、ジャン・アラリーだった。好奇心が満たされた私は黄ばんだフォルダーを片付けた。アンダーウッドの古いタイプライターが、今から60年後にも支局のそこにあることを願いながら。

AFPによってキューバへ派遣されたジャン・ユトー記者が、革命後早期の一連の記事を書くために使ったアンダーウッドのタイプライターと配信記事(2018年12月25日撮影)。(c)AFP / Adalberto Roque

このコラムは、AFPハバナ支局のカテル・アビベン(Katell Abiven)支局長(前赴任地:モンテビデオ支局)が執筆し、2019年1月14日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。