【10月20日 AFP】(更新)サウジアラビアの著名ジャーナリスト、ジャマル・カショギ(Jamal Khashoggi)氏は、サウジ王室の顧問から超保守的な同国政府に対する辛口の批判者に転じ、最期はトルコ・イスタンブールのサウジアラビア総領事館内で殺害されるという複雑な人生をたどった。

 カショギ氏は米紙ワシントン・ポスト(Washington Post)に寄稿した最後のコラムの中で、「アラブ世界は、外部から強いられたのではなく、支配権をめぐる国内の諸勢力の争いから生まれた独自の鉄のカーテン(Iron Curtain)に直面している」と指摘していた。自らの先行きを見通して、中東における表現の自由の拡大を訴えていたのかもしれない。しかし、彼の声は永遠に失われてしまった。

 カショギ氏はトルコにルーツを持つサウジの名家に生まれた。親族には、サウジを建国したアブドルアジズ・サウード(Abdul Aziz al-Saud)国王の主治医を務めた祖父ムハンマド(Mohammed Khashoggi)氏や、著名な武器商人のおじアドナン(Adnan Khashoggi)氏がいた。

 若き日のウサマ・ビンラディン(Osama bin Laden)容疑者の友人、イスラム主義組織「ムスリム同胞団(Muslim Brotherhood)」の支持者、サウジ王家の顧問、サウジ政府の批判者、進歩主義者――カショギ氏はさまざまな矛盾した顔を持っていた。

 カショギ氏は1982年、米インディアナ州立大学(Indiana State University)を卒業。サウジ・ガゼット(Saudi Gazette)やアッシャルク・アルアウサト(Al-Sharq al-Awsat)といったサウジの日刊紙で記者を務めた。

 紛争取材でアフガニスタンにも行った。戦闘に加わることはなかったが、1980年代に駐留ソ連軍と戦ったムジャヒディーン(イスラム聖戦を行う者)に共感した。ムジャヒディーンに対してはサウジや米中央情報局(CIA)が資金援助を行っていた。

 カショギ氏は、アラブ世界から欧米植民地主義の名残の一掃を目指すムスリム同胞団の方針にも引かれていたことでも知られている。この思想を通じて、後に国際テロ組織アルカイダ(Al-Qaeda)を設立することになるビンラディン容疑者と親密になった。アルカイダは2001年9月11日、米同時多発攻撃を実行した。

 カショギ氏は記者として何度かビンラディン容疑者に取材を行って国際的な注目を集めた。しかし1990年代に、欧米に対する武力闘争を呼び掛けたビンラディン容疑者とは距離を置くようになった。