【記者コラム】戦争のない祖国から逃れる人々
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【10月5日 AFP】私にとってベネズエラの移民危機の取材は、まるで私事のような意味を持っていた。私はベネズエラと国境を接するコロンビアの都市ククタ(Cucuta)の出身で、これまで2か国を常に行ったり来たりしていた。ベネズエラには、友人を訪ねたり、散歩をしたり、おいしいものを食べに行ったり、カリブ海のビーチを楽しむために入っていた。だから、このベネズエラ人の物語は、私自身の物語のように感じるのだ。
それまで数週間にわたり、私たち取材班はベネズエラ人移民の状況を追っていた。家族を養えなくなったため、仕事とより良い未来を求めて南米各地に脱出するベネズエラの人々が、今年はこれまで以上に増えていた。彼らは、国を出て、エクアドル、ペルー、チリを目指す。労働許可が比較的簡単に入手できるコロンビアにも、大勢の人が定住している。
突然、大量の移民が流入してきたため、ベネズエラ人の入国を厳しくする国も出てきた。以前は、ボリビア、コロンビア、エクアドル、ペルー、ベネズエラの国民は、パスポートなしでお互いの国を行き来できた。だがこれらの国々が、入国管理を厳格化し始めたのだ。エクアドルが、ベネズエラ国民にパスポートの提示を求めると発表した時、私たちはできるだけ早く取材に向かおうと決めた。パスポートなしで入国できる期限までに滑り込もうと、人々が殺到すると分かっていたからだ。
8月19日の早朝に上司から電話があり、エクアドル政府の取り締まりが行われ、コロンビアとエクアドルの国境に大勢のベネズエラ人が押しかけていることを聞いた。仕事道具と多少の着替えを詰め、空港に向かい、コロンビアの都市パスト(Pasto)に向かった。パストは、コロンビアとエクアドルの国境付近から車で約2時間の距離にあり、ベネズエラの人々はその国境に向かうだろうと分かっていた。午後4時ごろパストに到着した私は、車で国境のルミチャカ(Rumichaca)国際橋に向かった。
道中、複数の少人数グループが、スーツケースを引きながら歩いている姿が目についた。私はしばらくの間、写真を撮りながら彼らについて行った。その後、国境へ向かう自分の旅を再開した。
ルミチャカに到着すると、入国管理局に数十人が並んでいた。毛布に身を包んでいる人やテントで何人か一緒になって眠っている人もいた。老若男女、さまざまな人がいる。彼らはみな、エクアドルに入国しようとしていたが、パスポートが必要になったため、入国が難しくなっていた。私は写真を撮ると、イピアレス(Ipiales)に急いだ。宿泊先のホテルを見つけ、そこから写真を送らなければいけない。
ルミチャカに人が集まり続け、翌朝、町はさらに慌ただしくなっていた。NGOが女性と子どものために、テントやマットレスを提供し始めた。1日中、地元の人たちが車でやって来て、ベネズエラの人たちにコーヒーやパンを配っていた。このような地元の人の親切な行為を、1週間の取材中何度も目にすることになる。
その日の終わりになると、エクアドルへの入国を諦め、700人あまりがペルーを目指すことを決めた。ペルーが、大部分の移民にとって最終目的地となった。ペルーは8月24日からパスポートの提示を求めると発表しており、これは時間との闘いだった。夜になると気温が3度にまで下がり、とても寒かった。移民の多くは何も食べていなかったが、コロンビアとエクアドルの地元住民たちが車でやって来て、温かいコーヒーやお茶、毛布、マットレスなどを差し出していた。
翌朝6時に橋に戻ると、エクアドル移民の多くはすでに長い徒歩の旅の準備がすっかり整っていた。私は上からのアングルで写真を撮るため高い場所に上った。そこで目にしたものが信じられなかった。何百人もの人が、スーツケースを引き、ハイウエーの脇を歩いているのだ。
この取材を通じ、最も印象深かったのは子どもたちだった。そのように感じたのは、私にも3歳のマルティナという大事な娘がいるからかもしれない。移民の子どもたちはとても純粋で、この旅がどんなに重要な意味を持つか分かっていなかった。子どもにとって、すべては冒険だった。どこにいても、遊んだり、笑ったりしていた。大人はただ、歩くだけだった。私は悲しみと無力感を覚えた。
その日遅く、エディターらと話し合い、私は移民について行くことにした。私はあるグループと一緒に歩き、写真を撮った。そのグループが道路の脇で夜を過ごす時、私も彼らと一緒にその場に残り、写真を撮ってから自分も眠る準備をした。
眠ろうとしたが、眠れなかった。ずっと移民たちのことを考え続けていた。私の友人や家族が移民となっていた可能性もある。私は3歳の娘のことを考え続けた。娘がハイウエーの脇を歩き続ける子どもの一人だったとしてもおかしくないのだ。
朝5時になると、移民をまずはキト、その後ペルーとの国境の都市ウアキリャス(Huaquillas)に連れて行くバスが何台か出るといううわさが広がった。私はバスに乗る笑顔の移民たちを見送り、コロンビアに戻って、記者と映像記者を待つことにした。私たち3人で、ペルーを目指す国境に着いたばかりのベネズエラ移民のグループの一つについて行くつもりだった。
私の同僚である記者ロドリゴ・アルモナシド(Rodrigo Almonacid)と映像記者フアン・レストレポ(Juan Restrepo)は、翌早朝に到着した。私たちはパンアメリカンハイウエー(Pan-American Highway)に向かった。パストを数キロ過ぎたところで、荷台に人が乗っているピックアップトラックが目に入ってきた。荷台の人たちは路上で知り合った2組の家族で、一緒に移動していた。ロメジ家はキトに、メンドーサ・ランディネス一家はペルーに向かっていた。
私たちはこの家族について行くことに決めた。
コロンビアの検問所に来ると、家族らは危険なのでトラックの荷台から降りるよう警察官に命じられた。
警察官の目が届かなくなるところまで歩くと、荷台に戻って行った。全員が荷台に乗ると、さらに数キロ旅を続けた。トラックの運転手が先に進めない場所まで来ると、生後5か月の赤ん坊1人を連れた11人は歩き始めた。みんなスーツケースを持っていた。
彼らは空腹だったが、幸運なことに道路脇に支援の手を差し伸べる人が現れた。このベネズエラ人の女性は数週間前にこの場所に来て、ここからそう遠くない場所にあるレストランで働いていた。女性は自分がここに着いた時のことを思い出し、彼らを見て泣き出した。女性が食事を差し出すと、2組の家族は分け合った。
その数分後、また幸運が訪れた。トラックが止まったのだ。運転手はイピアレスまで行く途中で、彼らをそこまで乗せて行ってくれると言う。みんな素早く自分のスーツケースを投げ入れ、乗車した。イピアレスに着くと、再び国境に向かって歩き始めた。
この取材は、肉体的に非常にきつい仕事だった。何時間も歩いて写真を撮る、長く、厳しい日が何日も続いた。先回りして移民たちが通り過ぎるのを待ち、それから再び先回りをするため車を走らせた。感情的にも疲弊した。なぜなら、常にこの状況に怒りを感じないように自分を抑え、いい写真を撮ることだけに集中しなければならなかったからだ。
数時間後、ついに国境に到着した。そこではさらにいいニュースが待っていた。人道主義的理由から、エクアドルが移民たちをペルー国境まで連れて行くバスを提供しようとしていた。移民たちは4度という凍てつく寒さの中、数時間待った。そしてメンドーサ・ランディネス一家の19歳のエリアナさんがバスに乗れないという、悪い知らせがもたらされた。身分証明書がボロボロだったため、入国管理局の職員は証明書が偽物だと思ったのだ。エリアナさんと5か月の赤ん坊ティアゴちゃんは後に残ることになった。
この決断を迫られた一家を見るのは心が痛んだ。エリアナさんと一緒に残れば、一家全員がペルー国境を越える期限に間に合わなくなってしまう。そこでエリアナさんと赤ん坊はロメジ一家と共にキトに向かい、残りの家族はバスに乗ってペルー国境に向かうことになった。私たちは急いで彼らを追いかける運転手を雇った。
バスは途中何度か休憩しながら、670キロ走った。国境の町ウアキリャスに到着したのは、8月25日午前4時だった。期限を4時間過ぎていて、間に合わなかった。一家の顔には猛烈な怒りと無力感が浮かんでいた。私も、心の中では同じ気持ちだった。
パスポートを持っていないメンドーサ・ランディネス一家は、ペルーに難民として入国できないか頼んでみることに決めた。列に並び、最終的には申請が認められ、難民として入国し、リマに向かった。そこで、エリアナさんの母親に会う予定だという。
その頃になると、私は40時間近く眠っていないため疲れ果てていたので、横になれるホテルを探すことにした。
この取材をできたことは良かったが、不便さや危険にもかかわらず、より良い未来を求めて祖国を脱出しなければいけない人々を見るのはつらかった。彼らの多くは専門職に就いているのに、その給料では家族を養うことができないのだ。
私は紛争と、それにより生み出された大勢の避難民たちの取材をしたことがある。紛争が起こった町に取材に行くと、もぬけの殻となっていることも多かった。だが、ベネズエラは紛争状態にある国ではない。ベネズエラの人々は、経済的な理由──医薬品が不足し、職があって給料をもらっていても、家族のための食料が買えない──から自分の国から避難しているのだ。平和な国から避難しなければいけない人々がいるということは、本当に悲劇的だ。
このコラムはコロンビアのカリ(Cali)を拠点に活動するフォトグラファー、ルイス・ロバヨ(Luis Robayo)氏が、AFPパリ本社のヤナ・ドゥルギ(Yana Dlugy)記者と共同で執筆し、2018年9月26日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。