【9月14日 AFP】それは1人の男性のすすり泣きから始まった。次に誰かがおえつを漏らし、他の誰かがそれに続いた。すぐに丘全体が、終わることのない大勢の泣き声に包まれた。何百人ものロヒンギャ(Rohingya)難民が、手のひらをモンスーンの季節の空に向け祈り、亡くなった人々を思い涙を流し、二度と見ることができないかもしれない故郷を思った。

 不意に悲しみに捉えられ、涙がこぼれそうになった。

 このほんの少し前、同じロヒンギャ難民たちが激しい抗議デモを行っていたのだ。銃を向けられ自分の住む村から追い出されてから1年。8月の暑さの中、バングラデシュとミャンマーの国境付近にある難民キャンプのテントの間を、「我らに正義を」と叫びながら、拳を空に振り上げて行進していた。

バングラデシュの難民キャンプで、ミャンマーから逃れて来て1年を迎え集まった数千人のロヒンギャ難民(2018年8月25日撮影)。(c)Nick Perry

 最前線でイスラム系少数民族ロヒンギャの危機を12か月間にわたり取材した私は、つい、心の中で彼らを応援せずにはいられなかった。ミャンマーでは忌み嫌われ、バングラデシュでは望まれない存在──行き場のない人々は、徐々に尊厳を取り戻している。

 ジュハラに力を。私がこの前日に会ったジュハラは、故郷の村での大虐殺から逃れる途中に山刀で顔を半分に切られた。片目と片手を失い、ほとんどしゃべることが出来なくなったが、なんとか生き延びた。だが、夫と両親は生き延びられなかった。

バングラデシュ南部コックスバザールにあるクトゥパロン難民キャンプでAFPの取材に応じたジュハラさん(仮名、2018年8月23日撮影)。(c)Nick Perry / AFP

 ジャマルに力を。20歳のジャマルはもうすぐ父親になる。機関銃の攻撃を浴び、右腕を失った。ようやく大人になったところなのに、一生障害を背負う。

 薄暗い小屋にいたある女性に力を。数週間前に出会ったこの女性は、夫と1歳の子どもが殺された後、4人の兵士にレイプされたという悲惨な話の詳細を、人権問題の調査員に語っていた。

 ロヒンギャの取材では、中立性を保った観察者でいることが時々難しくなる。

 私は焼き討ちされた村々から上がった煙が地平線を汚した2017年9月以来、国境地域を5回訪問している。

ミャンマーのラカイン州で焼き討ちに遭った村から上がっていると思われる煙を見るロヒンギャ難民(2017年9月4日撮影)。(c)AFP / K.m. Asad

 戦争の取材をした経験はないが、大きなショックを受けた市民が動揺しながらバングラデシュに押し寄せた様子はまるで、戦争としか言いようのない光景だった。担架に乗せられた瀕死(ひんし)の人々や傷口をかばいながら歩く人々が、国境付近で行われたあまりに信じがたい暴力を物語っていた。

船でバングラデシュに渡ってきた後、籠で運ばれる年配のロヒンギャ難民の男性。(c) Nick Perry

 ミャンマーは、ロヒンギャが国際社会から同情を集めるため自分の家を燃やし、驚くような残酷な話をでっち上げたと主張している。

 信じ難い話だ。国境で取材を始めた初日、難民たちは食べ物や水を恵んでもらおうと、私たちの車の窓をドンドン叩いていた。ある男性は、やけどで肌が黒やピンク色になった幼児を連れて私たちの横を急いで通り過ぎた。

「自分の子どもにあんなことをする親はいないだろう」。そんなことを考えているうちに、男性は大混乱の人混みに紛れて見えなくなってしまった。

バングラデシュのテクナフ近郊シャーポリルウイップで子どもを抱く、ミャンマーからバングラデシュに逃れてきたロヒンギャ難民の女性(2017年10月30日撮影)。(c)AFP / Dibyangshu Sarkar

 だが、あの光景は私の感情を刺激した。ロヒンギャ危機の初期の頃、大まかにしか状況がつかめず、偽情報も飛び交っていた。外国人記者は、政府がお膳立てした訪問以外はラカイン(Rakhine)州への立ち入りが禁じられていた。このため、個別に検証することはほとんど不可能だった。

 私たちが耳にするものが目撃証言なのか、それとも尾ひれの付いたうわさ話なのか、どう判別することができただろう?

 難民キャンプで1人にインタビューすると、あらゆる方向から叫び声が割り込んできて、公開討論のようになってしまうこともしばしばあった。証言がかみ合わないこともあり、話が分かりにくくなってしまった。

 だが、国境付近を何日も行き来するうちに、陸、川、海──国境を越えた方法が何であれ、早い時期に恐ろしい話に一貫性が出てきた。

バングラデシュ・バルカリの難民キャンプで、雨をよけるロヒンギャ難民(2017年9月17日撮影)。(c)AFP / Dominique Faget

バングラデシュ・ウキヤにあるクトゥパロン難民キャンプで、セメントのパイプに暮らすロヒンギャ難民(2017年9月20日撮影)。(c)AFP / Dominique Faget

 残忍で暴力的なレイプ、焼き討ち、山刀で武装しミャンマー軍と一緒になってジャングルに逃げたロヒンギャを追い詰める仏教徒の集団。男性、女性、子どもの区別なく行われた無差別虐殺。

 これらのすべてが、大部分が文字を読めない虐げられた少数民族による計算しつくされた策略だというのは、当時も今もあり得そうもない。

 何度も訪れているうちに、誰かが泣き崩れても、悪夢のような残虐行為や人の死を聞かされても、何も感じなくなっていった。私は、思いやりの心が薄れるのを不安に感じた。献身的に働いている根気強いバングラデシュ人の同僚への影響も心配だった。レドワン・アフメド(Redwan Ahmed)が、ロヒンギャがすすり泣きながら話すゾッとするような証言をすべて聞き、翻訳してくれていたので、私はある意味、守られていた。

 怒るのは簡単だ。私も徐々に怒りが湧いてきた。何の罰も受けない人々に。私たちの記事の下に、ロヒンギャはうそつきで、テロリストで、仏教国に入って来たムスリムの侵略者だというコメントを書き込む人々に。常に逃げ回っているが行き場がなく、出ることができない野外刑務所のような場所で年を取り、死んでいく100万の人々に。

バングラデシュのクトゥパロン難民キャンプで暮らすロヒンギャ難民の女性(2017年10月14日撮影。(c)AFP / Munir Uz Zaman

 あまりにも劣悪な状況から抜け出そうと、モンスーンの真っ最中に、家族を壊れそうな船に乗せ、ベンガル湾(Bay of Bengal)に繰り出すという危険を冒す人もいる。船は残酷な運命にもてあそばれ、岩に当たって粉々になり、岸からたった数メートルの所で夜の海に放り出される。おびえた子どもたちが荒れ狂う波に飲み込まれる。

 私は翌日、イナニ(Inani)の海岸で、子どもたちを失い打ちひしがれた父親のショナ・ミア(Shona Miah)さんに会った。ミナさんは、浜に打ち上げられた自分の3人の娘たちの目を閉じてあげながら泣き叫んでいた。

 穏やかな金曜日は、この悲劇によって大騒ぎとなった。少なくとも、イスラムの伝統にのっとって遺体を埋葬することはでき、遺体は清められ、白布で包まれた。イマーム(導師)が祈りをささげると、何百ものバングラデシュの人々が死を悼んだ。そのほとんどは、地元の貧しい船乗りと漁師で、静かに頭を垂れ、死者に敬意を示して立っていた。これまでで最も感動した光景だった。

ミャンマーから船でバングラデシュに逃れようとし、亡くなったロヒンギャ難民の葬儀を行うバングラデシュ人たち(2017年9月撮影)。(c)Nick Perry

 私が難民キャンプに行くたびに、着実に環境が改善していた。だが、今でも世界で最も混みあった場所の一つで、洪水の危険にさらされ、息が詰まるような暑さで、不潔な匂いが漂っている。私が記事にも書いた無法状態は深刻な問題だ。私たちが滞在を禁じられている夜の間、キャンプでは何が起こっているのだろうか。

 だが、かつての荒廃した地は、沢山の市場、モスク、さらにはサッカー場まで何か所かでき、底辺にあった生活は改善されている。

 超満員の診療所で泣き叫んでいた、膨れたお腹の栄養失調の赤ん坊たちはいなくなった。水を汚染していた屋外での排便や、道端で助けを求めうめいている病人やけが人、体の一部を失った人、食料を運んできたトラックになりふり構わず殺到する人々も消え去った。だが、これらの光景を忘れることは決してないだろう。

バングラデシュ・ウキヤのクトゥパロン難民キャンプで、食料に手を伸ばすロヒンギャ難民。(c)AFP

バングラデシュ・ウキヤで、食料を配給するトラックの周りに群がるロヒンギャ難民(2017年9月14日撮影)。(c)AFP / Munir Uz Zaman

 だが、トラウマは傷口を開けたまま残っている。

 私がバングラデシュ取材から帰って来た8月末のある日、AFPのニュースアラートが入った。国連(UN)の調査団がミャンマーの軍幹部をジェノサイド(大量虐殺)の罪で訴追するよう要求したのだった。ロヒンギャが初期の頃から主張していたことが認められたのだ。

 だが、軍幹部たちの姿を法廷で見ることはないだろう。法廷に出たとしても、判決が下されるのは10年以上先のことになる可能性もある。

バングラデシュ・ウキヤのナヤパラ難民キャンプで、雨の中、食料の配給を待つロヒンギャ難民の列(2017年10月6日撮影)。(c)AFP / Fred Dufour

「私たちは世界に向かって正義が欲しいと言っているだけだ」と、弾圧から1年を迎えた抗議デモの2日前、モハマド・ホサイン(Mohammad Hossain)さんは熱心に訴えた。頭には、「ロヒンギャに救いの手を」と書かれた白いバンダナが巻かれている。

 彼のためにも、世界の人々がロヒンギャの話に耳を傾けることを願っている。

このコラムはAFPニューデリー支局の記者ニック・ペリー(Nick Perry)が執筆し、2018年9月4日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。

バングラデシュ・コックスバザールにあるクトゥパロン難民キャンプの丘を歩くロヒンギャ難民(2017年11月26日撮影)。(c)AFP / Ed Jones