【AFP記者コラム】ロシアW杯から愛を込めて
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【7月10日 AFP】私が雇ったタクシーの運転手セルゲイは、私が頼んではいないどこだかへ連れて行きたいと言い張った。
がっちりした体形で上背は軽く180センチを超え、頭はそり上げたスキンヘッド。彼はニジニーノブゴロド(Nizhny Novgorod)の住宅団地の端と思われるところへ車を乗り入れて止めると、車から降りて私に携帯電話を出すように言った。
私のサッカーW杯ロシア大会(2018 World Cup)取材、2日目。
私が行ってくれと言ったのは、2億9000万ドル(約320億円)かけてこの街にできたばかりの真新しいスタジアムだ。W杯の全試合のうち6試合が予定されている会場だ。
でも、セルゲイには違う考えがあった。
今どこにいるのか、ここから逃げ出すルートはあるのか、私が考えようとしていると彼は、心配するな、たった10分だ、と言った。
2人とも車の外に出ると、セルゲイは近くにあった小さな壁の向こうを私に指さした。そのスタジアムがある街、一番の見晴らしだった。セルゲイは私の携帯電話のカメラ機能を見つけると、土産に、と言って写真を撮ってくれた。
これには、アンコールがあった。やっと着いたスタジアムから今度はホテルへ戻るとき、彼はまた違う場所へ寄ろうと言った。今度は地ビールを私におごると言うのだ。この街一番の地ビールだ、と温かい笑顔で言った。彼におごり返そうとした私の申し出は、ことごとく断られた。本人が言う通り、確かに彼は運転中だった。
30分ばかり街を回っている間に、自分の街を見せたい(それからビールを飲ませたい)というセルゲイの親切さと熱意によって、私が1か月のロシア滞在に抱いていた不安は一気に吹き飛び、今後数週間が楽しみになってきた。そして、ほんの一瞬でも最悪の事態を思い浮かべたことに、自己嫌悪の情がわいた。
ロシアと大半の西欧諸国の関係の現状を踏まえれば、W杯前に人々が抱いていた不安も全く驚きではない。近場の欧州よりも、遠く中南米からやって来たファンの数の方が圧倒していたことも顕著だった。
私のようなサッカーマニアにとって、W杯の取材はエキサイティングなものとなるに違いなかった。しかし大会開幕前、ロシアへ行くんだと人に言うと、すごいねと言われるよりも、気を付けてと言われる方が多かった。
事実、私は英国人で、私の国とロシアとの関係の悪さを考えると、懸念の方が多かった。
本気で行きたいのか?と心配する人々に聞かれた。
ロシア人は「Otkooda?」、つまり「どこから来たんですか?」と聞くのが好きだ。
私はこの質問の答えを用意し、練習した。
着いた直後は、この質問を振ってきた誰に対しても私は自信満々にはっきりと、「Ya Irlandskii.」(私はアイルランド人です)と答えていた。これなら誰にも絡まれないはずだ、アイルランドはみんなに好かれている、私の祖国とは対極だ。
しかし2、3日たち、フレンドリーな雰囲気に安心すると、私の答えは「Ya Angliskii.」(私はイギリス人です)に変わった。それからずっとこう言い続けているし、実際、こう言ってこれほど楽しいことは過去になかった。
ロシア人の歓迎は最高だ。
彼らはたどたどしいロシア語を外国人が話すのを、寛大に見守りながら楽しんでいる。ホテルの近くのスーパーで袋をもらおうとして「sumka」と言うと、私の発音がロシア語で「雌犬」を意味する単語に近かったので、ぼうぜんとした地元住民たちからドッと笑いが起きた。博物館では親切でキビキビした老婦人から、靴ひもがほどけていて危ないよと注意された。同僚がタクシーをつかまえようとしたときには、ニジニーの住民たちが全力で手伝ってくれた。
不安が消えると、私たちはロシアを楽しむようになった。興味津々の外国人たちは、ごみが全くないとか、道のど真ん中でトラムが止まって乗客が降りるのに誰もひかれないといったささいなことをたたえては、ジョージア料理やウズベキスタン料理に舌鼓を打っている。
この広大な国の各地に飛んでいる同僚たちも似た話を伝えてきているが、ここ、ニジニーで受けた歓迎は私にとって何かもっと強烈だ。
ニジニーノブゴロドは旧ソ連時代、外国人が立ち入れなかった場所で、ここに来ている記者(私も含め)はこの数週間、それについて書いたりツイートしたりしている。
それがつい最近まで、辛うじて歴史と言えるかどうかの1991年の時点でも、この数週間で訪れている何万人というような人々が市街に近づくことなど許されなかっただろう、という事実は驚きだ。
かつて観光客がこの謎に包まれた街を一目見ようとして夜間、ボルガ川(Volga River)沿いにオカ川(River Oka)との合流地点であるストレルカ(Strelka)まで船でやって来た話を住民たちはよくする。そこはこの街で有名な景勝地の一つだ。
また、この街には1970年代まで道路地図がなかったともいわれている。
ニジニーでは毎日、そうした近い過去を目にする。観光で訪れることのできる最も著名な人物のかつての住まいといえば、故アンドレイ・サハロフ(Andrei Sakharov)氏が住んでいた小さなアパートが、市中心部から南へ約10キロのところにある。ノーベル平和賞を受賞した旧ソ連の反体制運動家サハロフ氏が、1980年代に住んでいた場所だ。
この著名な反乱分子が外国人といかなるコンタクトも取らないよう、彼の動きはすべて監視され、彼のアパートは定期的に家宅捜査されていた。
現在、サハロフ氏が住んでいた部屋は博物館となっていて、反体側には米ファストフード、マクドナルド(McDonald's)の店舗がある。
その街にこれだけ大勢のよそ者が流れ込んでいる光景は外国人にとっても驚きなのに、地元住民がこれをどう見ているのか想像してほしい。
そして、その両者が一緒に入り交じっている状態を。
もしも、ニジニーから一度も離れたことのない住民がいたとして、この2、3週間に訪れた人々だけを観察して判断したら、きっとスウェーデン人は全員、試合があろうがなかろうが一日中、黄色いサッカーシャツを着ているのだと思うことだろう。
クロアチア人はどこへ行くのもグループで行動し、朝食も集団で食べると思うことだろう。アルゼンチン人はドラマに満ちていると思うことだろう(これは合っているかもしれない)。
それから、パナマ人は地球上で一番幸せな人々に見えるだろう(これもその通りかもしれない)。
街にどっと押し掛けたサッカーファンや観光客について、住民たちは何も問題ないと私に言った。
「上の世代の人々は、私たちみたいにオープンじゃないと思う」と言うクセニアさん(27)。彼女は少なくとも3か国語を話す。「彼らにとっては、外国から来た人とコミュニケーションするのはもっと難しい。でも私たちはずっと楽です」
イバンさん(35)によると、地元住民にとっての大きな問題は、外国人と一緒にいることではなく言葉だ。彼は当然だという調子で「長年の間、街は(外に対して)閉ざされていたからね」と語った。
ロシア人たちも変化に気付いている。
ロシア日刊紙の一つ「ベドモスチ(Vedomosti)」は、幸せそうなロシア人の笑顔を見るのはなんと素晴らしいことかと感嘆しつつ、W杯の喧騒(けんそう)が去ってしまう7月15日以降はどうなることかといぶかしんでいる。
この街の短期滞在者である私たちにとって、ここはその中で暮らすに楽しく心地良い小さなシャボン玉のようだ。
朝、目覚めたときに世界中の悪いニュースについてあまり考えを巡らせることなく、スイスやセネガルや韓国は今日どういうフォーメーションで戦うだろうかと考えていればいい。
そう、もちろん、こんな感覚が永遠に続かないことを知っている程度には私も大人だ。私たちが全員、帰国してしまえば、すぐにW杯関連の最初の議論、おそらくデータに関する議論がすぐに前面に出てくるだろう。そして今回の主催国と私の祖国が再び友人となるには、ビデオ・アシスタント・レフェリー(VAR)だけでは足りないだろう。
それでもこの数週間は、皆がそうはならないと言っていた展開になっている。つまり、楽しいということだ。
このコラムは、AFPカタール支局のデービッド・ハーディング(David Harding)支局長が執筆し、2018年7月2日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。