【AFP記者コラム】ホーチミンのマイクロハウス
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【7月4日 AFP】普通の人や貧しい人と話すのがとてもうまい、とよく言われる。私自身、このような人たちが住む村で生まれ育った。通りにいるような普通の人と付き合い、知り合いになり、心を開いてくれるようにお願いするのが得意だ。
公的な立場の人よりも、普通の人や労働者の写真を撮る方が楽しい。彼らの生活をもっと知りたいと思う。私の興味はそこにある。
私は、ハノイ郊外の貧しい村の出身だ。土壌があまり豊かではなく、村は貧しかった。貧しかったが平和だった。その平穏な雰囲気が好きだった。古くからある村で、今でもあまり都市化されていない。
初めてホーチミンに来てから、新しいことを学び、経験するため、都市に住む普通の人の生活をもっと知りたいと思っていた。例えば、いつもつらい生活に不満を漏らしていたが、ホーチミンのマイクロハウス(狭小住宅)を撮影してからは、考え方が少し変わった。
私はきょうだいが4人いる家庭に育った。母は農民で、父はかつてハノイの至る所を走っていた三輪自転車タクシー、シクロの運転手だった。父は若い頃、家族全員を支えるのに十分な収入をシクロの運転で稼いでいた。ハノイの中心部まで引っ越せたほどだ。だが、その後、市当局がシクロを禁止し、父は村に戻って農民となった。当時、学生兼地元紙の記者をしていた私は、勉強と仕事を続けるためハノイに残った。
ホーチミンに住んでから1年半になる。数か月前、私は友人と一緒にスラム街として知られる1区と4区を訪れた。そこで狭小住宅を目にした。良い記事になると思い、AFPのハノイ支局長に提案した。
記事にするまで2週間かかった。最初に狭小住宅に行き、住民に自分の記事のアイデアを説明し、知り合いになろうとした。住民は疑っているようだったので、1週間かけて何回か訪問した。
撮影の初日は少し気まずかった。住民は私のことをあまり信用していなかったため、私が近くにいると落ち着かなかった。だが、2回目の撮影に戻って来た時、最初の訪問で撮った写真を持ってきて、手渡した。住民の信頼を勝ち取る私なりの方法だった。この方法はうまくいった。住民は写真を気に入り、少し警戒を緩めてくれたようにみえた。その後、数回通ったが、家に入って写真を撮る前に、必ず住民とおしゃべりするようにした。
家の中の写真を撮ること自体も難しかった。16-35ミリレンズを持っていなかったので、友達から借りてきた。家の中の写真、特に上からのアングルで撮るのは簡単だろうと思っていた。だが、実際に家の中で撮ろうとすると、思っていたほど簡単ではないことがわかった。
家があまりにも狭く、いいポジションを確保できなかった。外側から内側、内側から外側、床から――可能な限りすべてのアングルを試してみた。幸運なことに自分が持っていた小さなリコー(Ricoh)のカメラが、木の板のわずかな隙間にぴったりと合った。大きなカメラでは何もできなかったので、リコーのカメラがあって良かった。
変なアングルからの写真も撮った。ある時、木製のはしごを借りてきて、家の外側から登り、隙間にカメラをはめて撮った。控え目に言っても、すごく変わったポジションだった。
住民からの質問で最も多かったのは、「その写真で何か変わるのか?」というものだった。自分は記者で、ニュースや日々の生活を取材するのが仕事だと説明した。
写真を撮り始めたころは、なぜ2人しか住めないようなこんなにも小さく、息苦しい家に住むのか想像がつかなかった。だが、徐々に理解した。
何人かの人は、この辺りは自分たちにとってなじみがあるから――仕事があり、隣人がいて、市場から診療所まで生活に必要なものは全てそろっているから――だと言った。広々としているが何もないような田舎に引っ越すことは想像できない。ここが活気のある都市の中にある自分たちのコミュニティーだからだ。
最終的に、少なくとも地区の一部は取り壊され、ショッピングモールになるだろう。実際のところ、そうなっても残念だとは思わない。なぜならそうなれば、ここに暮らす人々はより良い生活を手に入れ、手に入れた補償金でもっといい場所に移ることができるのだから。彼らのような状況にはなりたくない。そして私のような写真家は、彼らの暮らしの現状を写真に収め続ける。
このコラムは、ベトナムのホーチミンを拠点に活動するフォトグラファー、タイン・グエン(Thanh Nguyen)氏が、AFPパリ本社のヤナ・ドゥルギ(Yana Dlugy)記者と共同で執筆し、2018年6月12日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。