【6月5日 東方新報】中国考古学者の趙康民(Zhao Kangmin)先生がこの世を去って、約2週間が過ぎた。この間も、中国を代表する遺跡である兵馬俑(へいばよう、Terracotta Warriers)には毎日、多くの観光客が訪れている。しかし、これらを命名し、修復活動などを進めてきた草分けである趙氏がこうした光景を見ることは、もうない。

 5月16日午後9時半、82歳でこの世を去った趙氏は、その一生を文化財保護事業に捧げた。趙氏が館長として長らく勤めた中国臨潼博物館(Lintong Museum China)には厚さ10センチもある本人の手記が保存されている。手記には、趙氏と兵馬俑との縁が語られている。

「一介の考古学者が、運よく兵馬俑遺跡1号坑の発見、鑑定、修復、命名などに携わることができた。この巨大な秦王朝の地下軍営の秘密を公開できたことは、この上ない幸せなことだ」

■最初に発見された兵馬俑、麦畑の「かかし」だった

 現在、臨潼博物館で、4体の兵馬俑が展示されている場所がある。うち3体の軽武装した兵馬俑は、井戸の中から発掘された破片を、趙氏自らが修復作業を手がけた最初の兵馬俑だ。秦始皇帝陵博物院から距離的にもそう遠くない臨潼博物館で陳列された兵馬俑が、一番最初の出土品であることを知っている人は少ない。