【AFP記者コラム】マヨン山に魅せられて
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【2月22日 AFP】私とマヨン(Mayon)山とのロマンスは、何十年も前、私が子どもの頃までさかのぼる。学校の教科書に、ココナツの木の陰で雨宿りをする農民の写真があり、その背景にマヨン山が写っていた。ほぼ完璧な円すい形に私の想像力は駆り立てられ、いつかこの目で見ると誓ったのだ。
最初のチャンスは学生時代に訪れた。休暇の時期になると、私はマニラの学校から実家までバスで帰り、遠くからマヨン山を眺めた。一面の緑の中に高くそびえるその姿は神々しく、円すいの先は天を指しているようだった。遠くから見ると、これほど美しいものが破壊と死をもたらすとは、とても信じ難かった。
マヨン山のパワーに最初に接したのは、フォトジャーナリストになって10年後だった。1994年、マヨン山は予兆なしに噴火し、麓の農地で働いていた地元住民たちが命を落とした。私たちも数日後に現場入りしたが、山は静かで、数日間とどまってシャッターチャンスを待ったが、再び噴火することはなかった。
私は魅了されていた。天気は快晴で、真っ青な空を背景にあの円すいがそびえ立っていた。周辺は緑だが、溶岩の通り道だけは焼け焦げていた。マヨン山にはある特徴があり、それは噴火しても火口が崩れないということだ。崩れたとしてもそれはごくわずかで、それも噴火と噴火の間に元に戻る。つまり、あの完璧な形はいつまでも維持されるのだ。
私は2009年の噴火も、今年の噴火でも戻って来た。マヨン山はあまり長く眠らない。
今年は特に長い期間、活発な噴火活動が続いた。支局長は、活動が活発化した2日目の1月24日に写真班と動画班を派遣した。私たちは10時間車を走らせ、毎回大きな被害が出る町、ギノバタン(Guinobatan)に着いた。
そこで数時間撮影をした後、そこからそう遠くない都市レガスピ(Legazpi)を目指した。運転している最中、雲がかかった噴火口から巨大な煙の柱が立ち上るのが見えた。マヨン山が私たちを歓迎してくれている! 車を急停止して飛び出した私たちは、撮影を始めた。近くに地元の人々が立っていた。何人かはフェースマスクを着けていて、「また降灰か」というつぶやきが聞こえた。
夕暮れ時にレガスピのホテルに到着し、チェックインを済ませてすぐに麓の丘、リグニョン・ヒル(Lignon Hill)に向かった。政府機関の火山学者らがここに観測所を設置していたからだ。夜が更けるにつれ、マヨン山は溶岩と灰を噴き出し始めた。山の傾斜に沿って岩が次々と転げ落ちていき、それはまるで真っ赤な川のようだった。なんとすごい光景なのだろうか。
近くでは数十人の観光客が写真を撮っていた。マヨン山から溶岩があふれ出てくるたびに、人々は感嘆の声を漏らし口笛を吹いた。風に吹かれた木の枝と葉が鳴っているようだった。
翌日から数日間は、火山周辺の農地を車で回りながら絶好の写真を撮れそうな場所を探した。すると土砂降りの雨が降った。雨の勢いは増していく。この天気は翌日まで続き、マヨン山は霧の向こうに隠れてしまった。私は心の中で、これはまずいと考えていた。雨が降るということは、科学者らが使うインドネシア語の「ラハール」を意味するからだ。ラハールとは、大量の灰、岩、噴火堆積物が土石流となって流下する危険な現象で、その通り道の村々や家は破壊される。幸運なことに、今回はそのようなことにはならなかった。
土砂降りの前に私は、火山の麓にある農地を訪れていた。農民の男性とおしゃべりをしていると、二重の虹が現れた。振り返ると、意外なことに男性は不安な表情をしていた。彼は現地の言い伝えを私に教えてくれた――マヨン山付近に虹が現れたときは、噴火が近いのだという。しかも今回は二つも出ている。これは良くない前兆だ。私は頷いた。
翌日、灰を噴き出すマヨン山を見ながら、私は昨日の話を思い出した。煙の柱が大きくないことを確認しながら、虹は空を彩るだけのものだと自分に言い聞かせた。
マヨン山の取材は、山麓を撮った完璧に近い写真と映像なしには終わらない。ある日、切羽詰まった私と同僚は、噴火のために住民が退避して人けがなくなった村に足を踏み入れ、山の麓を目指した。幹線道路を後にし、荒れた小道を30分上って行くと、干上がった河床にたどり着いた。辺りには岩や礫岩(れきがん)がゴロゴロしていて、さらに高い所に上がると、マヨン山の麓が見渡せた。そこから見えたものは、真っ黒い山の斜面のシルエットと、枝も葉もなくなった枯れ木の幹ばかりだった。
私は落ち着かなかった。1991年にピナツボ山(Mount Pinatubo)から命からがら逃げ出した体験を思い出したからだ。これでもう十分近づいたと自分に言い聞かせ、引き返そうと同僚らを急かし始めた。しかし戻る途中で、驚くべきことに自宅に戻ろうとする大勢の住民たちとすれ違った。急いで避難せざるを得なかったため、農地と家畜の面倒を見るために命懸けで戻って来たのだ。
これが、私にとってマヨン山が特別な理由だ。火山自体はそこまで危険ではない。もちろん、1994年の噴火のように時に大規模な犠牲者と惨事をもたらす可能性はあるが、ほとんどの場合、マヨン山の噴火は数キロ離れて見るには安全だ。そして今年もそうだった。
マヨン山は自然の美しさとパワーを見せるが、被写体としてなら申し分なく、私たちを痛めつけようとはしない。それはまるで、この山があがめられるために存在するようだ。美しく、力強いが、命取りではない。人間はマヨン山を楽しむことができる。
翌日、私は朝の火山の様子を撮るために、日の出とともに小高い場所に上がった。ここだ、と思える場所を見つけるのはなかなか難しい。うっそうと草木が茂る中、10キロの機材を持って、滑りやすい石だらけの小道を上ったご褒美は、頂上に着いたときの景色だった。雲にさえぎられることなく、金色の朝日を浴びて輝くマヨン山。子どもの頃から私の心にあるこの山に、また会うことができた。荘厳で、美しい。私たちのロマンスはまだ続くのだ。
このコラムは、AFPマニラ支局のチーフ・フォトグラファー、テッド・アルヒベ(Ted Aljibe)がAFPパリ本社のヤナ・ドゥルギ(Yana Dlugy)記者と共同で執筆し、2018年2月8日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。