【AFP記者コラム】ロヒンギャ取材で刻まれた傷(パート2)─私の家族も難民だった
このニュースをシェア
【10月18日 AFP】イスラム系少数民族ロヒンギャ(Rohingya)難民による、ミャンマーからバングラデシュへの一斉避難。この取材でAFPのアニエス・ブン(Agnes Bun)記者とサム・ジャハン(Sam Jahan)記者は、拭い去ることのできない傷を負った。ブン記者は必死の人波を撮影しながら、今回の取材に突然個人的な関わりを見いだした。何十年も前、カンボジア大虐殺を逃れた自身の家族も同じような状況だったのだと思い浮かべたからだ。ジャハン記者は子どもたちの窮状に打ち震えた。一人きりですぶぬれになっていた幼児、カメラの三脚を見ておびえた少女、母親を救おうとしていた幼い少年。そうした小さな命がここまで無残な仕打ちを受けるさまを目の当たりにすることに、ジャハン記者は耐えられなかった。両記者が、それぞれのロヒンギャ危機取材を振り返る。
<パート2>私の家族も難民だった:アニエス・ブン記者
痛みで彼が泣く声を、私は一生忘れないだろう。
イスラム系少数民族ロヒンギャ(Rohingya)難民のアジズル(Azizul)君は15歳だった。両親ときょうだいと2人の姉妹と一緒にミャンマーからバングラデシュの国境を越えるときに地雷を踏んだ。両脚を吹き飛ばされた状態でバングラデシュにたどり着き、同じロヒンギャ難民に囲まれながら病院のベッドで亡くなった。他の難民たちも皆、命懸けで安全な場所まで逃れて来ていた。
40年以上前の1970年代後半、私の家族もカンボジアのジェノサイド(大量虐殺)から逃れるために国境を越えた。命を落とした者もいる。強制収容所をたらい回しにされた者もいる。タイやベトナムの難民キャンプにたどり着き、そこで数年過ごした者もいる。
私の両親は最終的にフランスに渡り、そこで出会って結婚し、私が生まれた。私はAFPのビデオジャーナリストとして、台風、地震、洪水の被災地や紛争地帯などを取材してきた。どの惨事でも、私にはいつまでも残る傷痕、撮影した人々の顔を思い出すと体の中がえぐられて涙が出るような痛みが残っている。
だが、1週間かけて取材したロヒンギャ難民の危機はそのどれとも比べようがない。今回の取材は自分自身のための取材となった。自分の家を離れることを余儀なくされた人々の恐怖感、虚無感。目には、突然自分たちに向けられた憎悪を理解できない困惑が浮かんでいた。あの家族たちは、私の家族が半世紀近く前に耐え忍んだのと同じ状況をくぐり抜けていた。
家族のお国言葉である中国語の方言で聞かされて育った私の家族史。その家族史を映し出す鏡を人生で初めて歴史が与えてくれたのだ。
ロヒンギャ難民のキャンプでは、保護者のいない大勢の子どもたちにカメラを向けた。半裸の子、泣いている子、嘔吐(おうと)している子。逃げる途中で親を失った子、あるいは目の前で親が殺されるのを見た子。子どもたちは一瞬にして無邪気さを剥ぎ取られていた。撮影しながら、私の心はカンボジアのキリング・フィールド(大量虐殺が行われた刑場)をさまよっていた。友人や親族の死を目撃し、強制収容所での飢えを経験し、よろめきながら国境を越えてタイに入ったとき、まだ10代かそこらだった私の叔父や叔母たちは同じような様子だったのだろうか。
ロヒンギャの人々を撮影しながら、これまで語られたことがなかった私の家族の体験すべてを理解した。
私の親戚は一度も話してくれたことがなかった。人間の残酷な野蛮さによって自分の住まいと暮らしが焼かれ破壊されたことを思い起こすときには決まって、年老いた人々がしわだらけの顔を今にも泣き出しそうに一層しわくちゃにし、肩をがっくり落として気高さを失うことについて。
あるいは、モンスーンを迎えた今の時期、難民たちが足を取られてよろめくほどのぬかるみについて。避難民で絶えず膨れ上がっている仮設キャンプにはトイレがないため、ぬかるみには人の排せつ物が混じっている。
あるいは、終わりのない無秩序状態について。時にはスピードを出した車に難民がはねられることもある。私の目の前で高齢の男性がトラックにひかれて倒れ、頭を血だらけにしていた。取材仲間と車でそのトラックを追い掛け、車両ナンバーをメモし、すぐに警察に通報した。警察側は捜査するとは言ってくれたが、私はその言葉をほとんど信じていない。
一番古い難民キャンプでは、1990年代にこのキャンプを作ったというロヒンギャに会った。そこで生まれ、他の地はまったく見たことがない人々もいた。今は10代から成人に達しているが、外の世界への憧れも何の夢もなく、ひたすら単純労働をしている。
私自身も難民の子どもだが、彼らと私の間には大きな隔たりがあった。彼らは大学はおろか学校というものに行ったことさえないのではないだろうか。妊娠した女性にもたくさん出会った。おなかの子どもはどんどん成長しているが、その未来にはすでに絶望が待っていた。
バングラデシュにいた1週間、私はできる限りたくさん撮影した。人間の愚行によって何十万人もの人々が路上に放り出され、その暮らしが永遠に変えられてしまうと、いったいどうなるのかを世界に示すために。
私自身はカンボジアの大虐殺を経験していない。両親もその直前に逃げ出せた。だが、祖父母や両親のきょうだいは身動きが取れず、あちこちの強制収容所に移送された末にタイやベトナムに逃れ、そこから米国やニュージーランドに移住した。カンボジアの大虐殺は私の人生や選択にも影響を与えている。職業の選択もそうだ。
私の父も母もあの時代、自分や家族が何を経験したのかめったに話さなかった。タブーだったわけではないが、それらは過去の出来事であり、触れないでおくのが最善とされていた。10代の頃、カンボジアの虐殺について、私は家族からごくたまにしか聞かされたことのない話と本で読んだことをつなぎ合わせていた。そうした恐ろしい本を読むことには、もちろん吐き気を覚えた。だが、ロヒンギャの人々を見て初めて私は自分の胸を突かれた思いがした。これが、あの時代の私の家族だったのだ。
今回の撮影は、虐殺を生き延びた者の娘である自分のため、家族のため、そして早くに亡くなってしまった父のためでもあった。私たち家族が体験したのとよく似た話を世界の向こう側に知らせて関心を高めようとする私の努力を父は誇りに思ってくれるかもしれない。それとも父は、自分が体験した悲劇から娘をずっと守ろうとしたのに、それとよく似た悲劇に娘が没頭しているのを見ておののくだろうか。
それは永遠に分からない。私に確信できるのは、アジズル君の泣き声は、私が生まれる前に私の人生を形作った大虐殺のこだまとして、ずっと私の中で響き続けるだろうということだけだ。
このコラムは、インド・ニューデリー(New Delhi)を拠点に活動するAFPのビデオジャーナリスト、アニネス・ブン記者が執筆し、2017年9月22日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。