【10月12日 AFP】イスラム系少数民族ロヒンギャ(Rohingya)難民による、ミャンマーからバングラデシュへの一斉避難。この取材でAFPのアニエス・ブン(Agnes Bun)記者とサム・ジャハン(Sam Jahan)記者は、拭い去ることのできない傷を負った。ブン記者は必死の人波を撮影しながら、今回の取材に突然個人的な関わりを見いだした。何十年も前、カンボジア大虐殺を逃れた自身の家族も同じような状況だったのだと思い浮かべたからだ。ジャハン記者は子どもたちの窮状に打ち震えた。一人きりですぶぬれになっていた幼児、カメラの三脚を見ておびえた少女、母親を救おうとしていた幼い少年。そうした小さな命がここまで無残な仕打ちを受けるさまを目の当たりにすることに、ジャハン記者は耐えられなかった。両記者が、それぞれのロヒンギャ危機取材を振り返る。

<パート1>子どもたちの惨状、心えぐられる思い:サム・ジャハン記者

バングラデシュ、ウキヤに近いバルカリ難民キャンプで捨てられた衣服の横を通り過ぎるイスラム系少数民族ロヒンギャの少年(2017年9月16日撮影)。(c)AFP/Dominique Faget

 朝4時に電話が鳴った。昨秋ロヒンギャがバングラデシュに大量脱出したときに知り合った、ロヒンギャ男性カマル(Kamal)さんからだった。対ミャンマー国境に程近い港町、コックスバザール(Cox’s Bazar)付近に住んでいる。

「アッサラーム・アライクム(あなたの上に平安をの意、イスラム教徒同士のあいさつ)、カマルさん。どうした?」。私は寝ぼけ声で応答した。

「何もかも焼かれています…誰彼構わず殺されています。ミャンマーに行って親戚を連れ戻るつもりです。どうか世界にこの抑圧について知らせ、私たちのために祈ってください!」。カマルさんは息を切らしていた。走っているようだった。

 電話はそこで切れた。以来一切音沙汰がない。

 その電話ですっかり目が覚めた。数日前からラカイン(Rakhine)州にミャンマー軍が結集しており、国境・沿岸警備隊が越境は認めないと繰り返し警告しているにもかかわらず、大勢のロヒンギャが対バングラデシュ国境に到着していることは知っていた。

 ひどい背中の痛みで、本来なら1週間の静養が必要だった。だがカマルさんからの電話を受け、コックスバザールへ取材へ行かせてくれるよう編集部に文字通り懇願した。

 事態についてはそれなりに把握しており、一大事が持ち上がろうとしていることは分かった。ミャンマー軍がラカイン州で作戦行動に出る際は決まって大勢のロヒンギャが避難し、仏教国ミャンマーの軍がイスラム系ロヒンギャの民族浄化に及んでいると国際社会が非難するのが常だった。

 編集部に懇願したかいがあった。AFPヤンゴン(Yangon)支局から、ロヒンギャ武装勢力がミャンマー軍の複数の駐留地点を襲撃したという記事が配信されると、上司らが現地入りを認めてくれた。武装勢力による攻撃は、必ずや厳しい報復を招くはずだった。

 ノートとテープレコーダー、カメラ、三脚、大量の鎮痛剤を詰め込んだバッグを抱えてコックスバザールへ飛んだ。

弾圧を逃れて、ミャンマーからナフ川のバングラデシュ側シャーポリルウイップの岸辺にボートで到着したロヒンギャ難民。対岸には煙が上がっているのが見える(2017年9月12日撮影)。(c)AFP/Adib Chowdhury

 現地の情報筋からは、夜のうちにロヒンギャが国境近くまで来たもののバングラデシュへの入国を拒否されたと聞いていたが、初日は何も目にしなかった。さらなる情報を得るため司令官に会おうと、グンダム(Ghumdhum)と呼ばれる国境警備隊の駐屯地へ向かった。

 司令官は非常に協力的で、インタビュー撮影も許可してくれた。その中で同司令官は、状況は平穏で静かだと語った。だが私が録画ボタンをオフにした途端、まるでそれを待ち構えていたかのように、国境の向こう側の1キロほど先で、何百発もの銃声が鳴り響いた。迫撃砲が緩衝地帯の側溝に断続的に着弾し、地上15~20メートルの高さまでしぶきが上がった。それまで丘陵地帯に隠れていた何千人もが、死ぬまいと国境に向かって走り出すのが見えた。

 これほど度肝を抜かれる光景はかつて見たことがなかった。恐怖と興奮、怒りを覚えたが、何より強い好奇心が勝った。こんなありさまを目撃したのは初めてだった。昨年には29人が犠牲になったダッカ(Dhaka)の高級飲食店「ホーリー・アーティザン・ベーカリー(Holey Artisan Bakery)」の襲撃事件を取材したが、その時は事件現場に居合わせたわけではなかった。しかし今回はまさに自分の目の前で事態が展開した。

 司令官は部下にいかなる緊急事態にも対処できるよう臨戦態勢を命じ、国境検問所や側溝に数十人を送り込んだ。部隊はロヒンギャがバングラデシュ側へ入ることは認めなかったが、国境近くまで移動することは許可した。「迫撃砲の着弾範囲から身を守れるよう、せめて近くまで来させることはできる」と同司令官は言った。

 避難する難民らを遠くから撮影しながら、どうしてもっと大きなレンズを持って来なかったのかと悔やんでいると、司令官が近づいてきてもう一度インタビューをと促された。

 そこには感情の高ぶりが見て取れた。そして政府関係者としては思い切った発言をした。「丘陵地帯から大勢の難民が下りてくるのが見える。大半が女性や子どもだ。ミャンマー側の駐屯地からの激しい砲撃が聞こえるが、実際に何が起きているのかは見えない。状況は非常に緊迫しており、われわれは最高の警戒態勢にある」

 翌日までには、ロヒンギャの村々で報告された残虐行為が世界に知れ渡っていた。多数のロヒンギャが逃げ出し、バングラデシュ内に入って立ち往生していた。翌朝私は同じ駐屯地へ急いだ。どのようにしてかは不明だが、国境を越えたロヒンギャが少なくとも500人いて、バングラデシュの国境警備隊員が監視していた。私はあぜんとした。女性や子ども、高齢男性ばかりだったからだ。モンスーンの雨でびしょぬれになった後に、今度は焼け付く太陽にさらされながら腰を下ろしていた。

ミャンマーからボートでナフ川を渡って、バングラデシュ側のテクナフの岸辺に到着したロヒンギャ難民の女性と慰める親戚たち(2017年9月14日撮影)。(c)AFP/Munir Uz Zaman

 ある幼女の姿が目に入った。ファティマ(Fatima)ちゃんという名だと分かった。その3歳の女の子は草むらの中を歩き回りながら、空になった水のペットボトルで遊んでいた。ボトルを両腕で抱きかかえようとするのだが、大きくて持て余していた。私はその様子を撮影しようと、三脚を取り出し脚を広げた。

 ファティマちゃんは三脚を据える私の動作に気が付くと動くのをやめ、その場にぴたりと立ち尽くした。

 ファインダーに目を当てた瞬間、彼女は突然叫び声を上げて母親を捜し始めた。私は戸惑った。何がいけなかったんだろう? 何を叫んでいるのか分からなかったが、同じ言葉を何度も繰り返していた。それから私は察した。ファティマちゃんは「お母さん、見て!あの人が私を銃で撃とうとしている!」と言っていたのだ。

 ショックだった。3歳の子が、私に銃を向けられていると思うなんて! この世に生まれてわずか1000日のうちに何を見て、そんなふうに考えるようになってしまったのだろう?

 私は三脚を片付けて女の子をなだめようとした。ファティマちゃんは木陰に走って行き、5歳の姉のアミナ(Amina)ちゃんの後ろに隠れてしまった。

 母親のモクレサ(Mokhlesa)さんがファティマちゃんに歩み寄った。5児の母で、夫とは死別したという。ファティマちゃんを落ち着かせようとしながら、娘がそのような反応を示した理由を説明してくれた。ほんの数日前、父親が目の前で殺されるのを見て、心に深い傷を負ったのだという。

「父親が至近距離から兵士に撃たれて死ぬのを見たんです。この子はその悪夢に毎晩うなされています」とモレクサさん。私は言葉を失った…

ミャンマーのラカイン州から避難し、バングラデシュの町テクナフ付近の難民キャンプに到着したロヒンギャ難民の子どもたち(2017年9月5日撮影)。(c)AFP/K M Asad

 以来、私は見るべきではなかったものを見てしまった不幸な難民の子らの話をもっと掘り起こそうとした。数十万というロヒンギャの子どもたちがバングラデシュに到着して道端や丘で暮らし、安全な飲み水や食料、避難場所を切実に必要としている。全員を助けたいのはやまやまだが、線引きしなければならない。誰もが困っている中で、もし1人に何かを渡せば、たちまち奪い合いになるのは分かっていた。皆身一つだった。

 土砂降りの時、われわれの車のそばに幼いロヒンギャ少年が寄って来た。「おじさん、お米を1キロ買うお金をくれませんか? お母さんが病気で、丘に残してきたんだ」。私は運転手にこっそり50タカ(約70円)を渡し、少年にあげてくれと言った。少年は受け取った金をぽかんと見つめていた。バングラデシュの通貨が分からないようだった。そして「これでお米を買うのに足りる?」と聞いた。私が母親はどうしたのかと少年に尋ねると、下痢に苦しんでいると答えた。

 無理もない。難民らはやむなく外で用を足していた。そして文字通り所構わず水を飲んでいた。悲しいかな、病気がはやるのも時間の問題だと思えた。雨と日差しの絶え間ない繰り返しで、乳幼児の大半が既に肺炎やせきの出る病気にかかっていた。緊急医療支援を必要としていた。私はお母さんのためにと、自分が持っていた下痢用の薬と経口補水液を全部少年に持たせた。だが心の奥では、少年には十分な飲料水は見つけられまいと分かっていた。

 翌日、バングラデシュ本土の最南端のシャーポリルウイップ(Shah Porir Dwip)という場所へ行った。そこにはロヒンギャ難民が引き続き船で到着しており、浅瀬には多くの遺体が浮かんでいた。その日はモンスーンの豪雨で誰もがびしょぬれだった。難民らはトラックに乗り込み、若干の救援物資と支援が得られるキャンプへ向っていた。

 2歳だという小さな女の子がいた…無言で震えながらトラックの荷台に座っていた。雨粒にぬれそぼち、それをどうすることもできずにいた。体温を見ようと額に手を当ててみると焼けるように熱く、発熱していた。同乗の人々に、彼女の世話をして雨から防いであげられる両親や親戚はいないのかと尋ねてみると、横に座っていた男性が、その子は孤児なのだとぶっきらぼうに言った。

 どうしようもない無力感を覚え、涙を押しとどめることができなかった。心をえぐられる思いがした。それまで出会ったすべての子に深く同情していたが、この孤児の女の子には特別心を揺さぶられた。あまりに小さく、あまりに心細そうに見えた。この子は誰かのおかげでトラックに乗せられ、残虐行為が伝えられている故郷を離れ、バングラデシュまでたどり着いた。だが今や彼女は異国の地で一人きりだ。これほど悲惨な窮状に置かれている子どもたちを見るのはたくさんだと思った。もう耐えきれなかった。自分の神経がおかしくなる寸前だと感じた。

ミャンマーのラカイン州から避難し、バングラデシュの町テクナフ付近の難民キャンプに到着したロヒンギャ難民の子どもたち(2017年9月5日撮影)。(c)AFP/K M Asad

 こうした危機を取材していれば、さまざまなことに遭遇するのはもちろん分かっている。万事なるべく善処しようとして、ついには忘れたいという気も起こった。だが運命は、私の心にさらなる傷を刻み付けた。

 私はアジズル(Azizul)君(15)という、地雷被害者に会った。彼は対人地雷の爆発により、両脚と腹部のほとんどを失っていた。病院を訪ねた時にはもうろうとしており、意識が戻ってくるたびに弱々しい声を振り絞って「お母さん! ジュースをちょうだい…大きくなって稼げるようになったら、お金を持ってくるから」と言った。一銭の持ち合わせもない母親は、死にゆく息子を慰めながら、ただ無力に涙を流していた。

 私はアジズルの話を記事にし、翌朝配信された。病院に電話をかけ、あの子の容体はと尋ねると、既に亡くなっていた…

 あらゆる人道的危機には政治が絡んでいる。われわれジャーナリストは目の前で起きていることを、最善を尽くして伝えようとする。私は取材任務を終えて帰宅したが、記事にしたあの子たちは今どうしているだろう、生きているだろうか、無事だろうかと思い巡らせ続けている。

 どんな紛争でも二次被害は避けられない。それは私も分かっている。それでも私は自分が見たあの悲しみのすべてを、特に子どもたちの苦しみを、済んだものと片付けることができずにいる。体の傷は薬で治すことができたが、あの日々を目撃した後の自分の心をどんな鎮痛剤なら癒やしてくれるだろうかと思わずにはいられない。

このコラムは、AFPバングラデシュ・ダッカ支局のサム・ジャハン記者が、パリ(Paris)本社のヤナ・ドゥルギ(Yana Dlugy)記者と共同執筆し、2017年9月22日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。

ミャンマーとバングラデシュ間の緩衝地帯にあるジャルパトリ難民キャンプで、国境の向こう側をパトロールするミャンマー軍兵士らを見つめるロヒンギャ難民たち(2017年9月16日撮影)。(c)AFP/Dominique Faget