【9月26日 AFP】同じAFPの記者であるパトリック・バズ(Patrick Baz)と私には一見、何の共通点もないように思えた。彼はベテランカメラマンで、30年にわたって中東や北アフリカの主要な紛争をくまなく取材してきた。私は東京にちょっと居たことがある以外はほとんど、フランスで勤務してきた。

 けれど私たちには一点、共通点があった。2人とも仕事を通じた心的外傷後ストレス障害(PTSD)を抱えているのだ。

 PTSDは、トラウマになる出来事を経験したり目撃したりすることで心の健康に生じる障害だ。きっかけとなった出来事の直後に現れることもあれば、何週間も、何か月も、あるいは何年もたってから現れることもある。おそらく多くの人はPTSDと聞くとまず、戦場での目撃や体験がトラウマになった兵士を思い浮かべるだろう。しかしPTSDは、初動対応を行う救急関係者からジャーナリストまで多くの人を悩ませており、原因も事故、虐待、暴行などさまざまだ。

リビアの主要都市アジュダビヤから数キロの地点で、ピックアップトラックの後部に座る反体制派の戦闘員(2011年3月22日撮影)。(c)AFP/Patrick Baz

 症状も多様だ。完全な無力感、睡眠障害や集中力の欠如、過剰飲酒などの自滅的な行動、危険に対する常時の警戒、驚きやすくなること、親密な人たちからの孤立感……。治療しなければ、PTSDは人生すべてを破壊することもある。仕事や人間関係に影響し、抑うつ状態や薬物乱用、摂食障害や循環器疾患、自殺といった他の精神衛生上の問題のリスクも高める。

 同様の出来事を目撃している場合が多い兵士やジャーナリスト同士の間では、PTSDのケアについて大きく前進しているが、一般的にはPTSDの話題は依然、タブーとされがちだ。

「この業界は、PTSDへの対処について非常に遅れている」と私に言ったのは、テレビ局フランス24(France 24)のレポーターで、危険地帯からの報道に関する訓練センターを創設したマチュー・マビン(Matthieu Mabin)氏だ。「大きな取材活動は長年、男性陣が独占してきた。彼らは、何かに苦しんでいることを自ら認めるようなことは期待されていなかった。同じポジションに女性がいた場合も、やはりそうしたことは言えなかった。女性は弱いと言われて、その任務から外されるかもしれなかったからだ」

イラクの首都バグダッドから北東20キロのバクバで夜間パトロール中、男性の身体検査を行う米陸軍ストライカー旅団戦闘団の兵士(2008年2月23日撮影)。(c)AFP/Patrick Baz

 何らが起きたとき、当事者でなくてもPTSDにはなる。警官や救急隊、もちろんジャーナリストも含め、そうした出来事を目にした人もPTSDになることがある。

パリのコンサートホール「バタクラン」で起きた襲撃事件後、避難させられる人々(2015年11月13日撮影)。(c)AFP/ Kenzo Tribouillard

 米コロンビア大学(Columbia University)のジャーナリズム・トラウマ・ダート・センター(Dart Center for Journalism and Trauma)によると、PTSDやその他の精神障害がジャーナリストに占める割合は「比較的低い」。しかし「少数だが重篤な状態」の人たちがいるという。

■心に負った傷

 何か月か前の時点では、私はまだ自分が負ったトラウマを認めることができずにいた。わずか9日間だったが、2011年、日本の東日本大震災の破壊的な津波の影響を現地取材したことによるものだった。

 友人に説得されてAFPの医師、オリビア・ヒックス(Olivia Hicks)氏にそのときのことを話したことで、ようやく私は6年前のこの取材が自分に与えた衝撃の大きさを受け入れるに至った。それまでの私は問題を整理する代わりに、その影響が心をいっそう深くむしばんでいることを否定していた。「否定は、立ち直りの要因ではない。否定しても、人は依然、トラウマの影響を受ける。まるで心の傷痕のようになる」と、精神科医のボリス・シリュルニクは著書「Mourir de dire:La honte」で書いている。

 パトリックは、おそらく多くの戦争や紛争を取材してきた記者の方が、PTSDについて語るのは容易だろうと言っている。戦争取材経験がある彼のような場合の方が、PTSDの影響があるという予測がつくと言うのだ。

 パトリックに症状が現われたのは2014年だった。パレスチナ自治区ガザ地区(Gaza Strip)に取材に行くことになっていたが、荷造りができなくなり、口が開いたスーツケースをそのまま家の中に放置した。同僚には電子メールで取材には行かないと伝えたが、数日間、ソファから動けず何もできなかった。「あれは過酷な仕事の一つだった」。心が何も感じなくなっていた。彼は後にPTSDと診断された。

 パトリックは2011年のリビア内戦での「正真正銘の虐殺」が引き金となったと考えている。

 東日本大震災の津波取材の何が、私にとって過剰だったのか。それは個人的な受け止め方だったのかもしれない。私は父親が日本人で、あの悲劇には胸を突かれた。あるいは津波による福島原発の事故後、われわれが抱いた放射能汚染に対する極度の恐怖だったのかもしれない。あの恐怖で私はほとんど正気を失う寸前だった。

 しかしフランスへ帰ると、私は何かがおかしいことを頭から否定して認めなかった。そこで否定したこと、そして自分の症状に対して何の治療も受けなかったことで、長期の療養休暇をとることになってしまった。私は子どもの頃のトラウマを思い出そうとしていた。個人的なことが原因でつらい時期を体験しているのではないかと思っていた。

東日本大震災による津波被害を受けた宮城県仙台市周辺(2011年3月13日撮影)。(c)AFP/Philippe Lopez

 ではなぜ今になって、これについて話すのか。同僚や友人、精神科医らとたくさん話した結果分かったことは、PTSDについて知っていて、その影響を受けそうな状況を承知しているジャーナリストの方がPTSDが起きにくく、たとえ起きた場合も、比較的早く支援を求める傾向があるということだ。私は自分の経験を、他の人たちに繰り返してほしくない。自分の経験を共有することが何か助けになってほしいと思うのだ。

 AFP社内でPTSDの予防法開発に取り組んでいるヒックス医師は、パトリックと私に自分たちの経験を公開してみてはどうかと勧めた。PTSD問題を重視しているAFPの経営陣からも勧められた。

 AFPではPTSDを診断し、その症状を治療するいくつかの方法を導入している。例えば、任務を終えてきたスタッフから報告を聞くための支援マニュアルが作成され、全地域の編集長、支局長に配布されている。スタッフが見て来たことについて話す機会を設けることは、PTSDのリスクがあるスタッフを見つけるためにも、そうしたスタッフをいち早く支援するためにも役立つ。「早期発見は治療にも、(PTSD関連の症状全体の)予防にも役立つ」とヒックス医師は説明してくれた。

リビアの首都トリポリで、当時潜伏中だったムアマル・カダフィ(Moamer Kadhafi)大佐の肖像に付けられた傷(2011年9月1日撮影)。(c)AFP/Patrick Baz

 PTSDにはたくさんの症状がある。パトリックは気が付くとよく落ち着かない気持ちになっていたり攻撃的になっていたり、時々パニック発作にも襲われると言う。「自分を失ってしまうんだ」と言う。彼はトラウマとなる記憶に由来する影響や苦痛を和らげる「眼球運動による脱感作と再処理法」という心理療法を受けた。

 他に可能な治療法には、アドレナリンの影響を遮断する効果があるベータ遮断薬の使用などがある。

 パトリックはセラピーの過程で、戦争や紛争を頻繁に取材していた過去の自分を捨て去ったと言う。「以前は死を撮っていた。今は生を撮っている」。戦争は「今はもう関心がない」と言う。

レバノンの首都ベイルート北方のジュニエで、水上スキーをしながら新婦の手にキスをする新郎(2017年5月29日撮影)。(c)AFP/PATRICK BAZ

 私もパトリックと同じような症状の多くを抱えていた。深酒し、眠れない夜を幾夜も過ごし、生活全般から自分が切り離されているように感じていた。

 トラウマ的な出来事を取材するジャーナリストは全員、そうした影響を受ける可能性がある。「トラウマは万人のものだ」と言ったのは心理的トラウマの専門家、ミュリエル・サルモナ(Muriel Salmona)氏だ。「大量の遺体は誰にとってもトラウマとなる」

 だが、トラウマ的な出来事がすべての人にPTSDを引き起こすわけではない。子ども時代に経験したトラウマのせいでより敏感な人がいたり、遺伝的に不安や抑うつといった精神衛生リスクがあったり、ストレスに対処する化学物質やホルモンの脳内機制が異なったりと、そこにはさまざまな要素が絡み合う。

 トラウマにさらされれば心理的な傷を負う。そして身体的なけがと同様、心の傷を治療せずに放っておいてはいけない。サルモナ博士はこう述べている。「骨折を放っておく人はほとんどいないだろう。だが、多くの人が心理的トラウマを無視している」

地中海経由での欧州への渡航に失敗し、ニジェールまで戻されてきた西アフリカ出身の移民たち(2017年3月31日撮影)。(c)AFP/Issouf Sanogo

■見えない傷

 パトリックはこうも言う。「身体的なけがをした方が尊いような捉え方をされる。そうしたタブーをそのままにすべきではない。身体的な負傷だけではないことを皆、理解しなければならない。見えない傷もある。僕はそれを皆に見てほしい」

 自分の体験、自分の傷について話すことは、それを抱えていることを自分が認めることであり、治療には不可欠なことだ。

 私は津波後の取材で受けた影響を見つめ、受け入れるのに長い時間がかかったため、まだ100%元の状態には戻っていない。取材には行きたいし、そのエネルギーもあふれていると思うが、自分からはまだ取材に行くことを申し出てはいない。津波取材のときにやっていたビデオ取材もやめた。今はAFPのマルチメディア部門で働くことを選択している。今も治療は続けていて、自分が見たことを消化しようとしている。

 こうしたすべての経験によって、自分に対する認識がずっと深まった。以前より自分についても、自分の限界についてもよく分かっている。ジャーナリストとしてどこでどのように働くかは、今回の自己認識の獲得によって定まっていくだろう。それから、私が大切に思う人々がつらいとき、前よりもよく支えることができるようになった。それがより容易になったのは、自分がそこを通ったからだ。

イラク北東部のキャンプで暮らすモスルからの避難民(2017年3月撮影)。(c)AFP/Delil Souleiman

このコラムは、パリ(Paris)を拠点とするジャーナリストのミエ・コヒヤマが執筆し、9月5日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。