【AFP記者コラム】火だるまの警察官─シャッター切り続けた隻眼のシリア人カメラマン
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【5月18日 AFP】この写真、そしてこの警察官には心底動揺した。目の前で、人が火だるまになっていた。フランス・パリ(Paris)でだ。しかも彼に非はなかった。私はシリア出身だ。シリアでは、警察は市民を守る存在ではない。デモ隊がいれば、実弾を撃ち散らす。これに対し、フランスの警察官がしたことといえば、催涙ガスを放ったことくらいだ。攻撃を受けていたのは警察側だった。
この写真は今月1日、パリで行われたメーデー(May Day)のデモで撮影したものだ。私がここパリで暮らすようになって、1年余りになる。故郷のアレッポ(Aleppo)で戦闘の写真を撮っていた際に片目を失い、同地を離れざるを得なくなった。
フランスにやって来てから、フリーランスのカメラマンとして働いてきた。デモも数多く取材してきた。この日もパリ東部、レピュブリック広場(Place de la Republique)とバスチーユ(Bastille)の間で、正午ごろ行われたこのデモに出向いた。
大勢の人がいた。中に黒ずくめで、バンダナで顔を覆った集団がいた。一行はデモというデモに加わっている。私は必ず彼らの後をついて回ることにしている。これまでの経験上、彼らが必ずトラブルを起こすと分かっているからだ。
この「黒の集団」は非常に暴力的だ。私も一度ならず、同集団に地面に押し倒され、殴打された。この日、私は一行が器物損壊に及ぶ姿を撮影していた。うち1人には、たばこの火をカメラのレンズに押し付けられた。ただ私に言わせれば、彼らは単なる厄介者以上の何者でもない。私はシリア人だ。私が見てきたものと比べれば、こんなものは幼稚園のお遊戯にすぎない。
この日も私はこの黒の集団を追った。また何かしでかすだろうと分かっていたからだ。私は同集団と警察の間に陣取った。右も左も撮影できるようにだ。撮影しながら、ここでは警察が被害者なのだということをはっきり見せたいと思った。一行は一方的に警察を攻撃していた。石やガラス瓶など、手当たり次第に投げつけていた。これに対し警察がしていたことといえば、催涙ガスで応戦するばかりだった。繰り返しになるが、分かってほしい。私はシリア出身だ。シリアといえば、警察が実弾で市民を撃つ国だ。だがここフランスの警察は、一切手を出さない。
■火だるまの警察官、その悲鳴
カメラを構えてレンズに目を当てている間、私は他の何もかもを忘れてしまう。黒の集団が火炎瓶を投げた瞬間も、私は見ていなかった。ただ炎に包まれた警察官が目に飛び込んできて、私はひたすらシャッターを切り続けた。それは一行が投げた最初の火炎瓶だった。私は火だるまになった警察官を追い続けた。ソーシャルメディア上で拡散したこの写真の中の彼は、催涙ガスの缶をデモ隊に向かって蹴り返そうとしていた。私は彼が悲鳴を上げるのを聞いた。周囲の警察官らも叫んでいた。救急隊が彼を搬送して行くまで、私は撮り続けた。
私はこの火だるまの警察官を見て本当に動揺した。入院中の彼の元へ、花を持って見舞いに行きたいと思う。彼は私の目の前で、生きたまま焼かれた人間だ。対する黒の集団は、気にも留めていなかった。警察に物を投げ続けていた。その直後には、スーパーのカートに火をつけ、警察に向かって突っ込ませさえした。
私は彼の顔のことばかり考えていた。やけどの痕が残りはしまいか。彼の家族のことも思わずにはいられなかった。私には、シリアでの爆撃でやけどを負い、見る影もなくなった友人が大勢いる。だから私には、それがどういうものか分かっている。もし彼らが同じ目に遭うとしたら…。
私は自分の目の前で多くの人が死ぬのを見てきた。多くの人が傷つくのを見てきた。それでもこの警察官を目にして、戦慄(せんりつ)を覚えずにはいられなかった。私は悪い警察がどんなものか知っている。シリアでは、警察は市民を守るためにそこにいるわけではない。私は警察が人々を、その頭を、胸を、撃ち抜くさまを見てきた。ここフランスでは、警察は市民を守る存在だ。このデモでも、警察は何もしなかった。ただ催涙ガスを発射するだけだった。それなのに、人間らしく振る舞ったはずの彼は、生きたまま火をつけられた。もしこれを見て何とも思わない人がいれば、その人こそ人間ではない。
そうは言いながら、警察側にも自業自得という面が全くないかといえばそうでもない。先のデモでは、私も警察から殴られもし、蹴られもした。だがその時の私は、デモ隊に交ざって立っていた。本音を言えば、私が警察の立場だったとしても同じことをしたはずだ。
私は自分の写真にざっと目を通すと、そのうちの1枚をAFP編集部に送り、その写真が配信に値するかどうか尋ねてみた。使いたいという返事だったので、私はオフィスに赴いて写真をダウンロードした。私がいた場所からそれが可能な機材を持ち合わせていなかったからだ。AFPは私にそのための機材に加え、ヘルメットを渡してくれた。私は再びデモの現場に戻った。ヘルメットにはAFPのステッカーを貼っておいた。そうしておけば、警察も私を報道カメラマンと認識してくれるはずだ。確かに相手側の態度は一変した。「シルブプレ、ムッシュー(そちらのお方、こちらへどうぞ)」と言葉遣いも大きく変わった。
■カメラマンには片目さえあれば十分
私がパリに来たのは2015年12月。同年9月、私はアレッポで片目を失った。政府軍に包囲され、突破口を開こうとしていた反体制派の写真を撮ろうとしていた。私は建物の入り口に立って写真を撮っていた。より良いアングルを求めて膝をついたその瞬間、スナイパーの撃った銃弾が当たった。弾は私の背後のドアから跳ね返り、私の右目を貫いた。幸いにもスナイパーは私よりも高い位置におり、弾は頭を貫通することなく、上から垂直に目に入った。しかも右目で助かった。この通り、私がカメラのファインダーをのぞくのは左目だ。かくして私は、今も何とか仕事を続けている。
以来、それでもカメラマンで居続けるのかと何度聞かれたか分からない。そのたびに私はこう答えてきた。「もちろん。カメラマンには片目さえあれば十分」
■それでも私は日々生き続ける
片目を失ったからといって、そこまで絶望を感じたことはない。シリアでは、友人も私も皆、いずれ死ぬか負傷するものだと覚悟していた。だから私は片目をなくしてもカメラは手放さなかった。私は現状を受け入れ、日々生き続けている。
パリに来て最初の3か月間、私はふさぎ込み、目のせいで入退院を繰り返していた。今はどうか? 今はここにも友人ができた。パリは好きだ。この街にいるとアレッポを思い出す。フランスの他の都市に行くと、パリに帰りたくなる。あるテレビ番組で取材を受けてからというもの、地下鉄で「あれ、ザカリアさんですよね」と声を掛けられることもある。ここが自分の居場所なのだと感じ始めている。
■私のシリアはもうない
私は新たな生活を始めようとしている。私の難民申請は受理された。妻と2人の子(6歳の娘と3歳の息子)、両親の呼び寄せも申請しているところだ。家族は今、全員トルコにいる。もちろんシリアは恋しい。私の祖国なのだから。
しかし私が知っていたあの国はもう終わってしまった。私のシリアはもうない。だからこそ、私はここで新生活を始めている。フランスは私を助けてくれた。だから私は何がしかの恩返しをしたいと思っている。(c)AFP/Zakaria Abdelkafi
このコラムはパリを拠点にフリーランスで活動するザカリア・アブデルカフィ(Zakaria Abdelkafi)カメラマンが、AFPパリ本社のアシル・タバラ(Acil Tabbara)記者、ヤナ・ドゥルギ(Yana Dlugy)記者と共同執筆し、2017年5月3日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。