創始者の死から100年、今も生きる人工国際語エスペラント
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【4月14日 AFP】ポーランド北東部ビアウィストク(Bialystok)にあるエスペラント協会のプシェミスワフ・ビエジュボウスキ(Przemyslaw Wierzbowski)会長(30)は「ハロー」ではなく「サルートン(saluton)」とあいさつする。国際共通語として人工的に作られたエスペラント(Esperanto)が、創始者ルドビーコ・ラザーロ・ザメンホフ(Ludoviko Lazaro Zamenhof)が亡くなってから100年たった今も生きている証しだ。
ザメンホフは国ごとに異なる言語が「人々を分断し、紛争の原因になっている」との思いからエスペラントを作ったと、ビエジュボウスキ会長は言う。「今日、経済格差や、民族や宗教の違いによって人々は分断されている。だがエスペラントは今も、私たちのコミュニケーションを助け、私たちを一つにするというゴールを目指している」
ビエジュボウスキ氏は、ビアウィストクの市場広場にある塔内の「エスペラント・カフェ」で語った。ザメンホフは1859年、このすぐ近くで生まれた。
この塔は19世紀、ドイツ人やユダヤ人、リトアニア人、ポーランド人商人らの露店が立ち並ぶ市場の中心だった。ビアウィストクは当時、ロシア帝政下にあり、民族間の緊張が高まっていた。
この「バベルの塔」に触発されて、ザメンホフは人々の交流を促し世界に平和をもたらすことを目的とした国際共通言語を作るという着想を得たといわれている。
ザメンホフはビアウィストクを出てモスクワ(Moscow)とワルシャワ(Warsaw)で医学を修め、1887年に「ドクトーロ・エスペラント(Doktoro Esperanto)」というペンネームで、エスペラントに関する初の著書を出版した。
1905年までに世界中で300を超えるエスペラント協会ができた。同年、約20か国から700人近い人々が、仏北部ブローニュシュルメール(Boulogne-sur-Mer)で開催された第1回世界エスペラント大会に参加した。
今年は韓国・ソウル(Seoul)で第102回世界大会が開かれる。今ではエスペラントを話す人は世界で100万人を超え、グーグル翻訳(Google Translate)で翻訳できる言語にもなっている。
日本の神道系の宗教「大本(Oomoto)」は、紛争のない世界を築く助けになるとしてエスペラントの普及に取り組んでいる。
■ノーベル平和賞の候補にも
その高い理想で知られるザメンホフは1917年4月14日に亡くなるまで、ノーベル平和賞(Nobel Peace Prize)の候補に13回も名前が挙がった。
ビアウィストクのエスペラント図書館に所蔵されている3200冊の中には、J・R・R・トールキン(J.R.R Tolkien)の「指輪物語(Lord of the Rings)」のエスペラント版「La Mastro de l'Ringoj」もある。トールキンはエスペラントに興味を持ち、エスペラントは「欧州を一つにするために必要だ」と書いたことがある。
エスペラントの習得は非常に簡単だ。基本的なルールは16だけで、例外はなく、基本語は1000語しかない。語彙(ごい)の約75%はラテン語かロマンス語派の言語、約20%はゲルマン語派の言語、残りはスラブ語派の言語に由来している。科学用語の多くはギリシャ語が起源だ。
毎年、ビアウィストクで開かれるエスペラント講座に数十人が登録している。
欧州のボランティアプログラムを通じてエスペラント協会で働くためにビアウィストクにやって来たフランス人学生アメリ・シャルティエ(Amelie Chartier)さん(22)は、「私がエスペラントを学び始めてから1か月半ぐらい。2か月もたっていません」と話す。「エスペラントは他の言語の習得に役立つ言葉でもあるんです」 (c)AFP/Bernard Osser