【AFP記者コラム】クーデター未遂、一線を越えたトルコ
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【8月1日 AFP】トルコ・イスタンブール(Istanbul)支局のフォトグラファー、ビュレント・キリチとオザン・コーゼは、クーデター未遂後の自分たちの国の行方を恐れている。7月16日の晩、2人はそれぞれ違う場所で催されていた仏ニース(Nice)のトラック突入事件の追悼行事を撮影していた。それから1時間も経たないうちに自らの国で、過去30年間なかった流血のクーデターが起こることなど予想だにしていなかった。
その長い夜、2人はイスタンブールの路上で展開する事態を撮影しながら、九死に一生を得た。ビュレントは怒れる群衆に襲われ、 オザンは軍と警察の銃撃戦に巻き込まれた。トルコはあの夜を境に永遠に変わるだろうと、2人は考えている。
「何ひとつ前と同じではなくなる」と2人は言う。
<キリチ>トルコは一線を越えた。軍に抵抗して立ち上がった人々は、兵士らを止めることはできたが、自分たちを制することはできなかった。制御を失い、今や何でも思い通りになると思っている。
これが起きたのは、イスタンブールだ。シリアの都市アレッポ(Aleppo)ではない。アレッポは無法地帯だ。だがここはトルコだ。民主主義のために闘い、軍を止めた、それはいい。だが軍を止め、兵士たちが投降したところでやめるべきだった。自分たちが成し遂げたことを世界に伝えたところで終わりにすべきだった。だが彼らはやめなかった。
昨夜は寝ることができなかった。今やどんなことにも対処できるよう備えている。簡単なことではない。ここは私の故郷だ。さまざまな国の紛争を撮影して、トルコに戻って来た。だが今は、この故郷で何が起きてもいいように覚悟している。
<コーゼ>橋の上で兵士たちを襲った群衆を捉えた写真。これらの写真がこの国を変えるだろう。トルコ人はいつも軍に敬意を抱いてきた。だがあの金曜日、ソーシャルメディアでは人々が兵士らを襲う写真や動画が拡散した。兵士たちが投降してもやまなかった。ソーシャルメディアでは、そうした映像について皆が発言していた。
トルコは今、二分している。一方は、レジェプ・タイップ・エルドアン(Recep Tayyip Erdogan)大統領に全面的に反発している層。もう一方は、彼を全面的に崇拝する層だ。私は本当にこの国の未来を恐れている。誰もが同じ気持ちだ。人々は衝撃を受けた。クーデターが企てられたことと、その間に起きたことに対してだ。それは非常にトルコらしい出来事だったが、この国では軍はいつも敬意を払われていたはずだ。だが、これらの映像がすべてを変えた。
■「軍が政権を奪取」
<キリチ>金曜の夕方、私はボスポラス海峡(Bosphorus Strait)に架かる2本の橋の一つを撮影していた。そこでニースの事件の犠牲者を追悼する光のショーが行われていたためだ。橋はフランス国旗の色、赤と白と青のトリコロールカラーで照らされた。
撮影の途中で、橋の上の車の流れが止まったことに気づいた。ラッシュアワーの時間帯ではなかったから、変な予感がした。友人や同僚から何かが起きているとの連絡が入り、私はオザンに電話した。彼も何かが起きていると言った。そこで私は同僚のフォトグラファー2人と一緒に車に乗り込み、その橋の方へ向かった。
車が橋に近づいていくと、クーデターの起点とみられる陸軍士官学校を通り過ぎた。その頃までには、軍が橋を封鎖したとの情報が入っていたため、私はがむしゃらに運転した。兵士が旗を振って、私たちの車を制止した。私は車の速度を落とし、窓から写真を撮った。
「なぜ、そんなふうに運転しているのか」と、兵士は聞いてきた。
「なぜこんなふうに運転する必要があるのか、私のほうが聞きたい」と、私は答えた。
「軍が政権を奪取したのだ」と、彼は言った。
そう聞いたとき、私は前の車に追突してしまった。足がブレーキから離れてしまったらしく、踏み直すのを忘れていた。「分かった、ありがとう」。私はそう言って走り去った。
さらにがむしゃらに運転して橋まで向かった。途中で、軍服姿の一群が人々を拘束している姿を見た。私は何枚か写真を撮った。すると兵士たちが叫び始めた。「OK、悪かった!」と叫び返し、私はまた車を走らせた。橋に到着して多くの兵士がいるのを目にし、パリのAFP本社へ電話をかけた。クーデターが起きている、空港が封鎖される前にフォトグラファーを送るべきだと伝えた。
それから私は防弾ベストとヘルメット、その他の装備を取りに家へと向かった。衝突が起きると確信したからだ。トルコにはクーデターの歴史がある。最後のクーデターのとき、私は生後6か月だったが、本で読んで何が起きたかは分かっていたし、父とも話していた。だから何が起きているのか考えがついたし、今回も衝突が起きると確信した。準備を整え、私は再び橋へと向かった。
■突然、始まった発砲
<コーゼ>金曜の夜はフランス領事館でニースの事件の追悼式を撮影していた。午後9時ごろに帰宅すると、兵士らがボスポラス海峡の2本の橋を封鎖したというツイートが流れてきた。警官が拘束され、アンカラでも似たことが起きているという報だった。何かおかしいとは思ったが、軍事クーデターだとは思いもよらなかった。
私は首相官邸へ向かった。クーデターが起きたのならば、イスタンブールの官邸を制圧しようとするはずだ。そこに1時間いたが、何も起こらなかった。兵士もいなかった。警察車両が止まって職務を果たしているだけだった。1時間後、タクシム広場(Taksim Square)に兵士がいるという知らせを聞いた。道にはタクシーもバスも走っていなかったので歩き出した。それから、同じ方向へ向かっていたミニバンをヒッチハイクした。中には8人が乗っていた。
運転手に降ろされたのは、タクシムに近い軍の基地周辺だった。私とその8人(全員民間人だ)は車外へ出た。すると突然、私たちに向かって発砲が始まった。片方には警官隊、もう片方には軍の兵士たち。私たちはど真ん中にいた。
ミニバンで一緒だった男性が頭を撃たれた。数メートル先で地面に倒れ込むのが見えた。銃弾がかすめる音が聞こえた。弾は足元に転がっていた。私は走り出した。
走って走って走った。200メートルほど走ると白い車が止まっていた。運転手は撃たれ、座席に沈み込んでいた。ショックだった。何が起きているのか、何が進行しているのか、理解できなかった。彼の写真を数枚撮り、タクシム広場へ向かって走った。
■死を恐れず進む群衆
<キリチ>橋に戻ると、群衆が兵士たちの前に集まっているのが見えた。エジプトを思い出した。エジプトでは群衆が行進を始め、それを兵士たちが撃った。
その通りだった。群衆はボスポラス橋の上で行進を始め、兵士たちが撃ち始めた。それを見て、これは深刻だと思った。
私は避難した。ショックだった。あれほど多くの人が死ぬ覚悟をもっているとは思っていなかった。兵士らは撃っていたのに、立ち向かっていた群衆は歩を止めようとはしなかった。
私は引き返し、写真を何枚か送ってから、また橋へ戻った。すると今度は1台の戦車が人々を撃っていた。同時に戦闘機が市内を低空飛行し、衝撃音が発生していた。警察署を爆撃して、群衆を近寄らせないようにするのだと思った。
そして、いつの間にか夜が明けた。まるで映画のようだった。ある普通の日に出かけたら、突然24時間が経っていたように感じた。ニースの犠牲者追悼行事を撮影するために橋へ出かけ、気付いたら朝日が昇っていた。
その頃には群衆が迫り、兵士らの持ち場を脅かしていた。もう一つの橋は兵士らが放棄したとの情報が入ってきて、群衆はさらに活気づいた。
■橋から投げ落とせ!
すると突然、群衆が戦車に向かって走り出した。私も一緒に走った。隣にいた誰かが「彼らは兵士たちを殺すつもりだ」と言った。その方向へ行くと、ナイフで襲われたり蹴られたりしている一兵卒の姿が目に入った。彼はすでに死んでいた。周りの人々は「橋から投げ落とせ!」と叫んでいた。
誰かが私のヘルメットを引きはがし、それで私を殴ってきた。他の人間も私を殴ってきた。「そいつを橋から投げろ!」と叫ぶ声が聞こえた。私は殺されると思った。そこへ、どこからか現れた男性が「おまえたちは一体、何をやっているんだ?」と叫んだ。私は「やめろ、やめろ! 私は首相府から来てるんだ」と大声で叫んだ。そう言うとやっと、群衆は攻撃の手を止めた。
<コーゼ>タクシム広場へ着くと100人ほどの兵士がいた。周囲を政権支持者たちが取り囲み、トルコ国旗を振って叫んでいた。「基地へ帰れ、基地へ帰れ!」
写真を何枚か撮ると、20分後位から兵士たちが空砲を撃ち始めた。群衆はスローガンを叫び続けていた。その時点では、けが人は見なかった。さらに10分後、兵士たちは足元、あるいは群衆に向かって直接、発砲し始めた。空に向かって銃を向けている兵士もいれば、人に向けている兵士もいた。
カオスだった。皆が走り、わが身を守ろうとした。その時、戦闘機2機が街の上を超低空飛行し、衝撃波が起きた。爆音で店の窓が割れた。どこかを爆撃しているのかと思った。
移動しようと決めた。そこかしこで銃が撃たれ、めちゃくちゃだった。ヘリコプターがいくつも頭上を飛び、あふれ返った群衆には怒り、抗議する人もいれば、ただ家へ帰ろうとしている人もいて、完全なカオスだった。たくさんのけが人がいた。夜だったから何もきちんと見えなかった。銃声が聞こえただけ。銃声が近づくたびに、私は身を守るために場所を変えようとした。
皆ショックを受けていた。父や祖父が経験したクーデターの話を聞くと、いつも決まって早朝に起こると言っていた。街に人けがない間に方々を兵士が占拠していたと言っていた。でも、私がタクシムへ行ったとき、そこにいたのは100人の兵士と、それに対峙する大勢の群衆だった。
■失われる正気
<キリチ>ジャーナリストがあちこちで殴られていたことを、後から知った。友人の一人は鼻を折った。それもショックだった。群衆は軍と衝突したが、ジャーナリストのことも殴っていた。自分の国でジャーナリストが殴られたのだ。
ツイッター(Twitter)ではあるものを目にした。兵士を殺す様子を中継していたのだ。私のそばにいた兵士だろうか?彼の首を切り落としたようだった。ツイッターで写真を見た。
あの橋の上で、私は人生で最も恐ろしい経験をした。私は戦争をいくつも取材し、シリア内戦も見てきた。だが、ここは私の国であり、私の故郷であり、この橋は私が子どもの頃から知る場所だ。その街で人々は制御を失っていた。これからは何も正気でなくなってしまうだろう。
■橋での画像
あの橋からの写真や動画によってこの国は変わるだろう。何もかも以前とは違ってしまうだろう。トルコ人はいつも軍に敬意を払ってきたのに、あの橋の上で彼らは兵士を殺害し、その写真や動画をソーシャルメディアに投稿した。
私は、兵士の遺体を蹴ったり、彼らをナイフで襲っている群衆を見た。警察は何もすることができなかった。誰もがショックを受けていた。
私はタクシム広場にいた兵士たちの目を見た。自分たちが何をしているのか、分かっていないように見えた。途方に暮れているようだった。
このクーデター未遂によって多くの人が亡くなった。トルコの何もかもが変わるだろう。人々は今や、反エルドアン派とエルドアン支持派に二分されている。
クーデター未遂以来、毎晩、人々は市内のあちらこちらの広場で抗議を繰り広げている。彼らはただ抗議しているだけで、それをいつやめるのか、私には分からない。(c)AFP/Bülent Kiliç, Ozan Köse
このコラムは、AFPイスタンブール支局の写真記者、ビュレント・キリチ(Bülent Kiliç)とオザン・コーゼ(Ozan Köse)が、パリ(Paris)本社のヤナ・ドゥルギ(Yana Dlugy)記者と共同執筆し、2016年7月20日に配信された英文記事を一部、日本語に翻訳したものです。