【AFP記者コラム】ピナツボ火山の死神から逃げ切る
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【8月8日 AFP】九死に一生を得る経験をした25年前、私はまだ若く、結婚を控えていた。死神は巨大な、カリフラワーの形をした灰色の雲で、ピナツボ山(Mount Pinatubo)の山腹をジェット機並みの猛スピードで駆け下りてきた。何百頭もの馬が坂を駆け下りるような地響きをとどろかせて。今日に至るまで、あの死神からどう生き延びることができたのか、よく覚えていない。
そのカリフラワーとは、1991年6月15日に大噴火を起こしたフィリピン北部のピナツボ火山から噴き出した熱いガスと岩石のことだ。何か月間も不穏な音を立てた後に起きたその噴火は、20世紀で2番目に大きな噴火とされ、1000人以上が犠牲となり、大量の灰とガスを大気中に吐き出し、地球の気温はその後、数年間にわたって下がった。
私は当時、首都マニラ(Manila)を拠点とする日本の報道チームのフォトグラファーとして働いていて、仲間のジャーナリストたちと火山の近くにいた。ピナツボ山は何週間も火山灰を噴出し、科学者たちが噴火を予測していたため、私たちはそれを捉えようと集まっていた。
噴火は予期していたが、噴出物は思わぬ方向に流れてきて、意表を突かれた私たちは唯一可能な方法で逃げた。3台のバンに乗り込み、迫り来る灰の雲を振り切ろうと必死でふもとへ向かった。バンは最速で走ったが、雲のスピードと比べるとまるで牛が引いているようだった。ガタガタと揺れる後部ドアから私が撮影した1枚に、その瞬間は捉えられている。真後ろに迫る巨大な雲に、他のバンがのみ込まれそうになっている写真だ。
■「死ぬんだ、死ぬんだ」「黙れ!」
摂氏1000度の雲は空気中で燃焼し、中では光や火花が飛び散り、進路にあるものすべてを灰へと変えていた。バンの中で私はパニックに陥り、シャツをたくし上げて頭を覆った。みんなは私を笑い「テッド、何しているんだ。そんなもので身が守れると思っているのか」と言った。「死ぬんだ、死ぬんだ」とつぶやき続ける私に、同僚の1人が「黙れ!」と叫んだ。
私はもうこれで終わりだと思った。シャツをかぶった頭の中で「神様、私が死んだら両親、兄弟姉妹、未来の妻……彼らはどうなるのですか」と訴えていた。そしてついに観念して自分に言い聞かせた。「これで終わりなら仕方ない」と腹を決めて口を閉ざした。
マニラから北へ約100キロにあるピナツボ山は、その数か月前から活動が活発になっていた。私は観測所に詰めている政府の科学者たちを撮影するために2度ほど、熱帯の植物が生い茂る登山道を1時間かけて訪れていた。6月初めには、ピナツボ山の西側の山腹にある集落はゴーストタウンと化していた。フィリピン火山地震研究所(Philippine Institute of Volcanology and Seismology)が山頂から半径10キロの範囲を「危険地帯」に指定し、政府が住民を強制退去させたためだ。同研究所が数日以内の噴火を予測すると、私たちはその一帯に6月13日に戻った。
6月15日の夜明け、噴火の数時間前。地元テレビ局のリポーターが私たちフォトグラファーのグループに、退去を拒んでいた住民が昨夜の噴火で死亡したと研究所から聞いたと教えてくれた。私たちはすぐに3台のバンに乗り込み、その村へ向かった。長い泥道を走っている途中で雷のような爆発音が2回聞こえたが、離れていて大丈夫だと思っていた。3台ともVHF無線を装備していて、互いに連絡がとれるようになっていた。まだ携帯電話がない時代だった。
突然、誰かが無線で、最大限の声で叫んだ。「上を見ろ! 噴火は垂直じゃない、こっちに迫ってる!」
急速に山を下りてくる巨大な雲を見た私たちは運転手に、Uターンしてできるだけ速く走れと叫んだ。バンは時速100キロ以上で、でこぼこ道を飛ぶように走ったに違いない。雲は私たちから500~800メートルのところまで迫っており、急速にその距離を縮めていた。
■「彼は何してるんだ?」
しばらくして同僚の1人が、そもそも私たちは何のためにそこにいたのかを思い出した。彼は後部ドアを開けて、噴火の写真を撮り始めた。「彼は何してるんだ?」と私は言った。が、私もまたカメラをつかんで撮り始めた。私たちの後ろのバンは、雲のすぐ前を走っていたために小さく見えた。後で思い返してみれば、最高速度で走る車から写真を撮ることができた自分が信じられなかった。前後に揺れながら写真を撮っていた私たち3人の体に、ドアがぶつかり続けていたことを覚えている。
いまだに、あのカリフラワー雲からどうやって逃げ切ったのか分からない。だが強い風が吹いていたのは覚えている。あの日、ちょうど台風の一部が上陸していたため、その風が雲を空へ押しやったようだ。私たちは信じられなかった。その場で起きたことに、あぜんとしていた。それを奇跡だと呼んだ同僚もいた。
嵐の予報は出ていた。だがカトリック教徒として生まれ、育ち、教育を受けた私たちのほとんどは、助かったのは奇跡だと思った。
雲が私たちを追跡するのをやめて空に向かっていくと、私たちは車を止めて写真を撮った。自撮りなんて言葉もなかった時代だが、私たちはみな巨大な雲の柱を背景に、自分の記念写真を撮った。
情報をくれたテレビ局リポーターのチャーリーとフィリピン火山地震研究所の職員たちが、私たちがそこにいるのを見つけて大丈夫だったかと聞いてきた。私たちは火山学者たちが一時拠点としている場所へ向かった。宗教団体が所有する場所で、木造の建物の傍らに等身大の聖母マリア像があった。私たちは荷物をまとめる代わりにその像の前に集まり、彼女の顔を見上げながら10分近く立ち尽くした。
移動しようとなったころには、また暗くなり始めていた。まだ朝の9時だったが、この世の終わりのような暗さだった。私たちは死の雲から生き延びたが、本格的な噴火はまだ続いており、石のかけらが道に降っていた。車で山を下りていく途中、逆方向から徒歩で登ってくる宗教団体の一行と出会った。彼らは白いローブを羽織り、世界の終わりが近づいていると言いながら祈っていた。私はその場から離れることで精いっぱいだったため、数回しかシャッターを押すことができなかった。
それから3、4時間後に幹線道路に到達し、米軍の海軍基地がある北部の港湾都市オロンガポ(Olongapo)へ向かった。そこなら安全だと思ったからだ。だが1時間後、途中の村の住民が、噴火で降った砂のせいで街への道路は封鎖されていると教えてくれた。そこで私たちは元の場所、ピナツボ火山のふもとへと引き返した。
砂が雨のように降っていた。道路一面に7~12センチの砂が積もっていた。車は走行が難しくなり、ワイパーは壊れた。運転手を手伝って、壊れたワイパーを長いロープに結び、皆で交代でドアから身を乗り出し、ロープの両端を引いて動かし砂をはらった。
私たちは北部のパンガシナン(Pangasinan)州へと向かっていたが、時折、車が厚い砂にはまり手で押すことになった。数週間前に青々と生い茂っていた熱帯植物は一面、砂に覆われ、荒野となっていた。
そこに5分もじっと立っていたら、私たちの足も砂で埋まっていただろう。だから一刻も早く安全な場所へたどり着かねばならなかった。8時間近く車で走った後、州境に到着し、小さな病院で夜を明かすことにした。多くの地元住民も避難していて寝場所がなかなか見つからなかったが、なぜか空いている部屋が1つだけあった。疲れ切っていた私たちは、そこにあった担架に倒れ込んだ。部屋はエアコンが効いていて心地よかった。
数時間後に目覚めると、部屋に自分一人しかいないことに気づいた。起き上がって同僚たちを探すと、混雑した廊下で寝ていた。なぜエアコンの効いている部屋から出たのか尋ねた。すると1人が私にささやいた。「テッド、あの部屋は死体安置所だ」。どうりでエアコンが効いていたわけだ。「私も廊下で寝るよ」(c)AFP/Ted Aljibe
このコラムは、AFPマニラ支局のチーフ・フォトグラファー、テッド・アルヒベ(Ted Aljibe)が同支局のセシル・モレラと共に執筆し、2016年6月29日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。