動画:銭湯文化を次世代へ、女性ペンキ絵師奮闘中
このニュースをシェア
【5月16日 AFPBB News】壁に描かれた富士山のペンキ絵をぼんやり眺めながら、広い湯船につかる。周辺住民が入れ替わり現れ、時には背中を流し合う──。家族団らんや地区の人たちの社交の場として親しまれてきた銭湯が、年々姿を消している。娯楽施設を併せ持つ「スーパー銭湯」に取って代わられたかのように思える昨今、日本でわずか3人という銭湯絵師の田中みずき(Mizuki Tanaka)さん(33)は、古き良き銭湯文化とペンキ絵の技術を後世に引き継ごうと奮闘している。「まずは親しみを」と、キャンバスは飲食店や福祉施設など銭湯にとどまらない。
東京・世田谷区のバー「ナーサ(NASA)」では、ギターの弾き語りと陽気な話し声の傍ら、壁面にハケでもくもくと細かい線を描き入れていく田中さんの姿があった。東京タワー(Tokyo Tower)と東京スカイツリー(Tokyo Skytree)が並び立つ夜景の作画が一段落すると、対面の壁に富士山を描き出した。下書きは、一切ない。ペンキが乾かないうちに色を重ねることで、壁の上に直接イメージ通りの色を作り出すのだ。絵が仕上がるにつれ、客の熱気も高まる。月明かりに浮かびあがる逆さ富士が完成すると、感嘆の声が上がった。
「ナーサ」を経営する水島渚(Nagisa Mizushima)さん(35)は、バーの雰囲気に合うように、銭湯のペンキ絵では珍しい夜景を依頼。2年前から温めていた企画の成功に「期待通り」と胸をなで下ろす。完成を見守った客の1人、本夛重成(Shigenori Honda)さん(38)も、「ペンキ絵には、印刷にはない手描きの温かみがある。(店に)直接足を運ばないと、この富士山を見れないのもいい」と笑みを浮かべた。
■卒論をきっかけに弟子入り
ライブペインティングを「いつもと違う客層に、銭湯のペンキ絵を知ってもらういい機会」と語る田中さんは、これまで老人ホームの浴室や宿泊施設の壁、商店街のシャッターなど様々な場をペンキ絵で彩ってきた。
銭湯のペンキ絵に興味を持ったのは、美術史を専攻していた学生時代。卒業論文のテーマを探すなかで生まれて初めて銭湯に足を運び、湯船から仰ぎ見たペンキ絵に心を奪われた。「まるで絵の中に自分が入って行くようなスケール感に圧倒された」と振り返る。その後、銭湯の減少に伴う絵師の減少と高齢化を知り、「この文化と技術を残したい」と、在学中からベテラン絵師のもとに通い始めた。卒業後に弟子として入門を許され、修行を経て3年前に独立した。
昔ながらの銭湯の天井は高い。はしごの搬入や足場作りから、1日の作業が始まる。重労働だが、田中さんは弱音を吐いたことがない。体力的なハードルよりも、師の背中を追い、見る位置によって姿が異なる富士山の全貌をつかむことに苦労した。
これまで幾度となく富士山を描いてきたが、今もその難しさは変わらない。「全体の印象を決めるのが、富士山。描き始める時はひと呼吸置いて、どこから見た姿か確認をしながら進める」と話す。
■次世代へつなぐ責任感強く
全国浴場組合によると、1912年に東京・千代田区の銭湯に描かれた富士山をきっかけに、関東を中心にペンキ絵が広まった。同組合創立時の1958年には約9700人いた組合員も、2015年には約2800人まで減少。湿気のため数年おきに塗り替えが必要になるペンキ絵を廃止した銭湯も少なくない。しかしその一方で、ペンキ絵を呼び物にしようと試みる銭湯もある。
千葉県公衆浴場組合・松戸支部もペンキ絵による活性化を図り、田中さんに市内で営業する「宮前湯」など5軒の壁面やシャッターへの作画を依頼した。1941年から続く「宮前湯」の3代目、前田勝彦(Katsuhiko Maeda)さん(58)は、「久々に明るくなっていいね。(田中さんの富士山に)女性らしい柔らかさがあるような気がする」と顔をほころばせる。
より多くの人に関心を持ってもらえるよう、ブログを通じて積極的に情報を発信する田中さん。いずれは後継者の育成にも携わりたいと、文化の担い手としての使命感を持つ。「師匠たちのように70代になっても現役でいられるかは自信がないが、私が50歳になる頃には次世代の絵師が現れてこないとこの文化の継承は難しい」
その一歩として、「地域の子どもたちとペンキ絵を描いてみたい。ゆくゆくは絵師になりたいという人が増えればうれしい」と田中さん。彼女が見つめる先は、富士山のように末広がりの可能性を秘めている。(c)AFPBB News/Yoko Akiyoshi