【3月8日 AFP】原発事故に見舞われたチェルノブイリ(Chernobyl)の荒野から逃れ、一文無しで英語も話せないまま米国に渡ったマリア・シャラポワ(Maria Sharapova、ロシア)は、みるみるうちに国際的スターに上り詰めて巨万の富を手にした。

 まさにアメリカンドリームのような話だが、世界で最も裕福な女性アスリートとして知られるシャラポワは、どんな困難な状況もはねのけ、自分の力で夢をつかむことを体現してきた。

 そのシャラポワは7日、ドーピング検査で自身の検体が陽性反応を示したことを公表し、夢物語の結末に暗雲が垂れ込めている。

 テニスを続けたいと明言したシャラポワは、想像をはるかに超える成功を収めてきたものの、これまでその才能を十分に発揮しているとはいえない。シャラポワが、四大大会(グランドスラム)を通算5回制している一方で、宿敵セレーナ・ウィリアムス(Serena Williams、米国)は、グランドスラムのシングルスで21回の優勝を飾り、今もなお現役選手のトップに君臨している。

 17歳で2004年のウィンブルドン選手権(The Championships Wimbledon)を制し、大会史上3番目の若さで世界的な名声を手に入れた天才少女を見た人々は、これがシャラポワにとってオールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ(AELTC)で唯一のタイトルになるとは考えもしなかっただろう。

 シャラポワはその後、全豪オープン(Australian Open Tennis Tournament)と全米オープン(US Open Tennis Championships)で1度ずつ優勝し、全仏オープン(French Open)では、ローラン・ギャロス・スタジアム(Stade Roland Garros)の赤土に苦戦し、自らのフットワークを「氷上の牛」のようと自嘲していたにもかかわらず、2度の戴冠を果たしている。

 シャラポワが最初にラケットを持ったのは4歳で、1986年に起きたチェルノブイリの原発事故から逃れて、ベラルーシ生まれの両親と共に移住したソチ(Sochi)で暮らしていた時のことだった。

 そして、マルチナ・ナブラチロワ(Martina Navratilova)氏に才能を見いだされ、アンドレ・アガシ(Andre Agassi)氏やモニカ・セレシュ(Monica Seles)氏らを輩出した米フロリダ(Florida)州のニック・ボロテリー・テニスアカデミー(Nick Bollettieri Tennis Academy)に入学することを勧められると、父親と7歳のシャラポワは、借りた700ドルを手にして1994年に渡米。シャラポワは、「ロシアでは、普通の平均的な日常を送っていました。そして、家族には夢があり、私には才能があったので、米国に移住したのです」と当時を振り返っている。