【AFP記者コラム】「レイプキャンプ」の衝撃、南スーダン内戦
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【11月20日 AFP】私は戦争犯罪を探して南スーダンへ行き、それに遭遇した。
話をした女性の一人、38歳のニャマイさんは、5人の子どもの母親だった。2年近く続く内戦で政府軍による直近の攻撃があった4月、北部ユニティ(Unity)州の村から連れ去られた。他の何百人もの女性たちと同じように、彼女も武装した男たちに拉致され、何日間も歩かされ、常に見張られ、頻繁に縛られた。夜になると10人もの兵士が、彼女をレイプするために列を成した。「せめて1人だけにしてほしい、みんなで来るのはやめて」と懇願した。すると、棒で殴られた。
戦乱で打ちひしがれた人々を保護する施設で、6日間にわたって行った数十のインタビューにより、誘拐と性的虐待の組織的形態が明らかになった。少女たち、女性たちは数日、数週間、あるいは何か月にもわたって拘束されていたレイプキャンプでのおぞましい体験を証言した。それは私がこれまで世界各地から報じてきた中で、あまりにも衝撃的な出来事の一つだった。
■残虐行為の噂
スーダンで何十年にも及んだ内戦の末に和平協定が結ばれ、6年後の分離独立への道が開かれた2005年以来、私は南スーダンを訪れている。遅々として不安定で段階的ではあったが、2013年12月までは、楽観的な見通しとともに進展はしていた。しかし、その12月、南スーダンで最も力を持つ政治指導者で元軍事司令官である2人が与党内での主導権と、それによってもたらされる国と石油など資源略奪の支配権をめぐり戦闘に突入した。
両者の武装勢力によって、この誕生したての国が、私が最初に訪れたときよりも悪い状態に陥るのに時間はかからなかった。インフラへの物理的なダメージよりも、残虐性と同胞に対する暴力性をさらに増した内戦による社会的破壊によるダメージのほうが大きい。
スーダンとの国境沿い、南スーダン北部の広大な沼地と森、油田が広がるユニティ州で今年初め、今回の内戦の中でも最悪の部類に属する事件が起きた。
残虐行為の報告は、4月から9月にかけて政府軍の攻撃がまだ続いていた頃から、少しずつ漏れ始めた。国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチ(HRW)と国連南スーダン派遣団(UNMISS)は、似た特徴を持つ襲撃について一連の警告を発していた。女性がレイプされ、多くは複数の武装した男たちに襲われて殺され、遺体が木につるされていることもある。それから、子どもたち、特に少年たちが殺されている。家が放火され、時に人が中にいようとも火が放たれる。少年たちは子ども兵として、少女たちは荷物持ちとして勧誘されている。村全体が徹底的に破壊され、わずかな財産や値打ちのある家畜が略奪されている。
明らかに戦争犯罪だと思われる状況を報道するために、私はユニティ州へ行くことを希望した。それによってこの紛争の本質にある何かを捉えて読者に伝え、南スーダンの内戦に対しもっと注目が集まってほしいと思っていた。
■ベンティウの国連キャンプで
首都ジュバ(Juba)へ飛び、それから北部の町ベンティウ(Bentiu)へと向かった。この時期、高度7600メートルの上空から見る南スーダンはただただ青く、沼地は雨と川からの水であふれていた。延々と続いていた緑が途切れたとき飛行機は高度を落とし、白い屋根の建物が並ぶ、荒野に切り開かれた町ほどの一画の上を旋回した。
私が乗った国連(UN)のプロペラ機は、ベンティウ郊外の泥の滑走路に着陸した。もう一方の端では政府軍の兵士たちが、軍が使っている輸送機アントノフ26(Antonov 26)から印のない木箱を降ろしていた。大型の機関銃を搭載したランドクルーザーが3台、近くでアイドリングしていた。そのうちの1台のフロントグリルの上には、ピンク色の造花で作った冠が置かれていた。
国連平和維持軍の基地までの道のりは短かった。内戦が始まって以来、国連の6つの基地は家を追われた何万人もの人々のための避難所となっている。だが、町にまでなっているのは、このベンティウだけだった。私が到着したとき、そこには11万8000人が暮らし、さらに毎週、1000人単位で到着していた。
和平協定が結ばれたにもかかわらず、平和は訪れていなかった。住民たちにとって、国連の基地は何にもまして安全な場所だった。ガーナやモンゴルから来た平和維持軍が監視塔で見張り、周囲のパトロールも行っているからだ。新しく到着する難民たちがいると聞いて、私はそのキャンプの南側の入り口付近へ行った。その途中、戦争のせいで学問を中断した経済学専攻の学生に通訳を頼むことができた。
息が詰まるような暑さの中、いくつもの家族がすし詰め状態になっているテントの一つに近づき、私は自分が記者であり、この内戦による被害について知りたいと説明した。そして誰か話をしてくれる人はいないかと尋ねた。キャンプの住民は大多数が女性と子どもで、私が最初に話かけた女性が取材に応じてくれた。
それはすさまじい内容だった。
政府軍とその同盟部族の民兵たちが彼女の村を襲撃した。7人の男性が殺害されるのを彼女は目撃した。2人は住まいにしている小屋の中で生きたまま焼かれ、5人は銃殺された。義理の兄弟も1人殺された。
隠れていたやぶの中から、女性たちが襲われるのも見た。「幼い子どもがいて逃げることができなかった女性たちが、次々と違う男たちにレイプされた。結婚している女性たちをレイプし、少女たちを連れ去った」と彼女は言った。
「何人、連れ去られたのですか?」と、私は聞いた。「私が知っているのは4人。1人は18歳、2人は15歳、もう1人は12歳だった」と返ってきた。女性は、誘拐された少女の1人の姉妹が近くに住んでいるので案内してくれると言った。
次のテントで、1組の姉妹に会った。姉と妹の間の女きょうだい6人がいなくなっていた。武装した男たちが皆を連れていくのを、2人は沼地から見ていたという。
別のテントには拉致され、集団レイプされた28歳と15歳の姉妹がいた。12歳の娘と一緒にレイプされた母親もいた。乳児を含む5人の子どもと引き離されて2か月間、監禁されていた女性もいた。
どこまでも続いた。テントを訪れるたびに、個々が体験した恐怖が語られた。ただし、その類似性からは、体系的に、組織的に、計画的に行われていることがうかがえた。
ベンティウでの6日間、私は何十人もの女性や少女たちにインタビューを行った。拉致されて逃れてきた女性たち、あるいは自分の子供や姉妹、母親が経験したことを知る女性たちだった。徐々に、この犯罪の姿が見えてきた。
多くの女性たちが、野営地について語った。女性たちはそこで日中は縛りつけられ、武装した男たちに見張られ、夜は列をなす男たちに集団レイプされた。「レイプキャンプ」というしかない場所だと思った。
このニュースが出た今、何か起きるだろうか。南スーダンで勃発した戦闘中に繰り返される残虐行為の単なる脚注として終わり、無視されて忘れ去られるかもしれない。
しかし私は、そうならないことを願う。
現在の和平協定の一部として、南スーダン内外の混成の判事団による戦争犯罪法廷の設置が予定されている。旧ユーゴスラビアやルワンダの国際戦犯法廷、あるいはシエラオネ特別法廷にならったもので、これらの法廷では政治指導者や軍幹部たちが裁かれ、有罪判決を受け、投獄された。
和平プロセスによって、忘却を強いられることなく平和が維持されるならば、南スーダンで犯された罪に正義が下されなければならない。そのとき、ユニティ州のレイプキャンプは起訴状の上位に記されるべきだ。(c)AFP/Tristan McConnell
この記事はAFPナイロビ支局(ケニア)のトリスタン・マコーネル記者が執筆し、10月6日に配信されたコラムを日本語に翻訳したものです。