【3月11日 AFP】冷たい霧雨が降る中、上野敬幸(Takayuki Ueno)さん(42)は、冬の福島県南相馬市の人けのない海辺で、当時3歳だった息子の遺骨を捜していた。4年前の東日本大震災で津波にさらわれた息子の亡きがらを見つけるまでは、悲しみから抜け出すことはできない。

 上野さんにとって、震災の6か月後に生まれた娘の成長だけが唯一、時間の流れを感じさせてくれる。「倖吏生(さりい)が3歳になって、この4月から幼稚園。もうお兄ちゃんが経験していないことを倖吏生は経験し始める。お兄ちゃんを抜いてしまう」「倖吏生の成長とともに、倖太郎(こうたろう)の短さ、3歳というものがどれだけ早いのかというのも思い知らされる」

 マグニチュード9.0の大地震と大津波に襲われた2011年3月11日は日本人の脳裏に焼き付いている。荒れ狂った黒い津波で1万9000人弱が死亡、または行方不明となった。津波は一帯の地域を押し流し、農地を汚染した他、ここ数十年で最悪の原子力事故を引き起こした。東京電力(TEPCO)福島第1原子力発電所で原子炉が炉心溶融(メルトダウン)し、放射性物質が大気中に放出され、周辺地域は立ち入り禁止の警戒区域に設定された。

「ここから見える範囲では、僕しか動いていなかった。それくらい人が全くいなくなった」。上野さんはAFPの取材に対し、震災直後をこう振り返った。「(原発が)ああいうふうになってからはまるっきり状況は変わって、本当に誰もいなくなってしまって。そこから自分一人で最初はやるようになった」

「当時僕らが一番本当に求めていたのは助け、捜索だった。これだけの人が行方不明の状態で誰も助けに来ない。自衛隊の捜索が始まったのが4月20日、津波が来てから40日後だった」「それはみんな原発のああいった状況が原因で、来るのが遅くなった。その期間も短いし」

 当時8歳だった娘の永吏可(えりか)さんと60歳の母親の遺体は、自宅近くで見つかった。自宅は第1原発の旧警戒区域(20キロ圏)の北に位置する。