【AFP記者コラム】ホロコーストを生き延びた人たちとの1日
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【2月11日 AFP】私は自分の祖母に接するときと同じようにした。彼女のそばに椅子を引いてきて座り、大きな声でゆっくり話しかけた。まるで子供に尋ねるように。
「ここは気に入っていますか?」
「ご飯はおいしいわ」と、彼女は答えた。
少し沈黙を置いてから、「アウシュビッツ(Auschwitz)では、体重は23キロしかなかった」と彼女は言い、また黙り込んだ。
私は「……の時のことを覚えてますか?」と、いくつもの質問を投げかけようとした。しかし彼女はその度に、「全部覚えているわ」と、私の質問を遮った。
約1時間、ショシャナ・コルマー(Shoshana Colmer)さんは記憶の海の中を泳ぎ続けた。1度も水の中から顔を出すこともなく。
彼女は、他のユダヤ人たちと一緒にチェコスロバキアを去ったときのことを語ってくれた。電車の中で2日間、立ったままだったこと。スーツケースは返してもらえる約束だったこと。強制収容所での「選択プロセス」について。シャワーに入れられ、剃られ、裸にされ、アウシュビッツの軍需工場で働かされることについて。
「私は全部覚えている。でもアウシュビッツでどんなふうに生きていたかは教えられない。だって私はあそこで生きてはいなかったから。ただひたすら恐れていた。それだけ」
95歳のショシャナさんは、イスラエル北部のハイファ(Haifa)にある「生存者の通り」と呼ばれる小道の一角に住んでいる。ここはホロコーストを生き延びた100人近くの人たちが、寄り添いながら余生を送っている地域だ。
その記憶で結ばれた年老いた人たちは、このコミュニティーから自分たちの物語を外の世界に発信している。ここを訪れるジャーナリストや学生、兵士、外国人たちと自分の経験を共有することは、彼らにとってトランプ遊びや医師の検診と同じように、日課になっていると言えるだろう。
ランチの時間になったために、ショシャナさんへのインタビューは中断した。彼女は絶対にランチに遅れない。今でも食事の後に一片のパンをナプキンに包んで自分の部屋に持ち帰っている。
食堂では、みんなが小さなグループごとに分かれて座っていた。だいたいは、ルーマニア語やポーランド語、ハンガリー語など自分たちの母国語ごとにグループになっている。歩けない人のためには、まだ丈夫な人が代わりにトレーを運んでくれる。数人は、腕に彫られた数字のタトゥーが見える。
同僚のカメラマン、メナヘム・カハナ(Menahem Kahana)がシャッターを切り始めるなか、私はただ静かに目の前の光景を見つめながら思いをめぐらした。このハイファの端にある食堂で、にぎやかに昼食を食べている年老いた男性や女性たちは、ホロコーストの最後の生き残りなのだ。私たちは、彼らの物語を後世に残す作業の一端を担っていると思う。
私たちが会った2人目の生存者は、ハイファ湾を見下ろすバルコニーがある小さなアパートに住むジュディス・ハスコウィッツ(Judith Hershkowitz)さんだ。彼女は近所づきあいをあまりしていない。「共同生活」の雰囲気や、「過去にあったこと」を話すのはどうでもいいと、彼女は言った。だがこのコミュニティセンターの代表が、彼女の話を聞くようにと、私たちに強く言っていた。
メナヘムは、ハスコウィッツさんに昔の写真を見せてくれと頼んだ。彼女は1枚だけ持っていた。戦前、ハンガリーの田舎のユダヤ人の村で行われた結婚式での写真だった。その黄ばんだ写真には、30人ほどが写っていた。
「生き残ったのは私だけ」と、彼女は言った。