アイルトン・セナ没後20年、記憶に残る気遣いの男
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【5月1日 AFP】フォーミュラワン(F1、F1世界選手権)のブラジル人元ドライバー、故アイルトン・セナ(Ayrton Senna)氏。彼が残していったものは記録だろうか、それとも記憶だろうか?ページに刻まれた数字だろうか、それとも揺り動かされた感情だろうか?F1での覇権だろうか、それとも個性あふれる人間性だろうか?
トラックでの才能や、かたくなな意志の強さ、またF1に注ぎ込んだ情熱といった物語については、すでに様々な場所で語られてきた。実際、グランプリ(GP)161回出場やポールポジション獲得65回、フロントロー獲得87回といった数字には、そうした物語が端的に要約されている。ハイライトはGP41勝、そして1988年、90年、91年の年間優勝だ。
それと同時に、マクラーレン・ホンダ(McLaren-Honda)でのチームメート、アラン・プロスト(Alain Prost)氏との激しいライバル関係、ドライバーの安全性に対する懸念、そして自身の子供と一般のモータースポーツファンに注がれた惜しみない愛情は、セナの情熱と人間性を物語っており、それゆえ人々は今年の5月1日も、20年前の1994年に命を落としたセナのことを、鮮明に思い出すことだろう。
その日の午後、悲劇に彩られた黒い週末となるイモーラ(Imola)でのサンマリノGP(San Marino Grand Prix)で、セナはポールポジションから最後のレースをスタートした。
前日の予選では、オーストラリアのローランド・ラッツェンバーガー(Roland Ratzenberger)が事故死するというショッキングな出来事が起こっており、大勢の人間が詰めかけたパドックは、不安と悲しみの波にのみ込まれた。
さらにその前日にも、重大な事故が起こっており、セナが目をかけていた当時21歳、F1参戦わずか2シーズン目のルーベンス・バリチェロ(Rubens Barrichello)が、マシンが宙を舞う大クラッシュを起こし、セナも慌てて搬送先の病院へ駆けつける事態となっていた。しかし、日曜日に起こったのはそれ以上の惨事だった。