【12月6日 AFP】ネルソン・マンデラ(Nelson Mandela)氏は、いったいなぜ、これほどまでに特別な存在とされるのだろうか。

 反アパルトヘイト(人種隔離政策)運動により27年間の獄中生活を強いられても、恨みをほとんど持たずに出所した。長年続いた人種間の憎悪が残した傷を癒やすには「和解」が重要だと説き続けた。

 1995年のラグビーワールドカップ決勝戦では、白人が中心の南アフリカ代表チームのウエアを着て登場し、全国民が一体となって応援するよう呼び掛けた。大統領に就任しても、権力にしがみつくことなく、1期務めただけで退任した。

 これらは、反アパルトヘイト運動の英雄の、比較的よく知られているエピソードだ。

■人々の心を動かした非凡な政治家

 だが、マンデラ氏が出所した1990年から、政界を去る99年までの軌跡を追い続けるという幸運に恵まれたジャーナリストたちの目には、はるかに多くのものが見えていた。この人は、決して並の政治家ではなかった。

 マンデラ氏を追うことは、人生を豊かにする体験だった。マンデラ氏は私たちを謙虚な気持ちにし、もっと良い人間になろうと思わせた。さらに、まだ黒人も白人も、国民の誰しもがアパルトヘイトの傷が癒えていない時代に、和解を受け入れようという気持ちにさせた。

 例えば、大勢の黒人たちが白人の「第3勢力」に殺害されたとのニュースが伝えられ、反白人感情が最高潮に達した時、ヨハネスブルク(Johannesburg)の端にあるアレクサンドラ(Alexandra)地区で群衆を前に演説していたマンデラ氏は突然、後ろの方に立っていた白人女性を指さすと、満面の笑みを浮かべて「あそこにいる女性は、私の命の恩人だ」と語った。

 女性を演台に呼ぶと、暖かい抱擁を交わし、ケープタウン(Cape Town)のポールスモア(Pollsmoor)刑務所に入れられていた1988年に結核にかかり、入院した病院でこの女性に看病されたと説明した。すると、群衆の雰囲気は一変。復讐(ふくしゅう)を求める声は歓声へと変わった。

 また、南アフリカ大統領を務めていた頃に周辺国の首脳らが集まる経済会議でのエピソードがある。アフリカで起きた危機に対する対応策を首脳らが発表することになっていた記者会見場で、長時間にわたり待っていた女性記者の1人が、子どもを学校に迎えに行かなければならなくなり、やむなく会見場に子連れで現れた。

 間もなく会場入りしたマンデラ氏は、男の子を見るやいなや、まっすぐ近づいて行き、「おや、こんにちは。忙しいところ時間を取って来てくれて、とてもいい子だね」と語りかけた。親子からは笑顔がこぼれ、他の記者は魅了され、首脳らは困惑した様子だった。

 選挙運動中には、記者らに「きちんと眠ったか」「朝食は食べられたか」と聞くことを欠かさず、多くの記者やカメラマンの名前を覚えていて「またお会いできてとてもうれしいです」と声をかけてくれた。

■「真の和解」を目指す懐の深さ

 マンデラ氏の「和解」への努力を語る上で、最も重要な瞬間の一つが、1958年から66年に暗殺されるまで首相を務め、「アパルトヘイトの設計者」とも言われるヘンドリック・フルウールト(Hendrik Verwoerd)氏の妻、ベツィー(Betsie Verwoerd)さんとの1995年の「茶会」だ。

 フルウールト氏の首相在任中にアフリカ民族会議(African National CongressANC)と南アフリカ共産党(South African Communist PartySACP)が非合法化されたためマンデラ氏は地下組織での活動を余儀なくされ、後に逮捕・起訴されて64年に終身刑を言い渡された。

「茶会」は、95年8月に、白人専用の居住区「オラニア(Orania)」にあるベツィーさんの自宅で開かれた。当時94歳で体が弱っていたベツィーさんは、マンデラ氏が訪ねてきてくれて嬉しく思ったという他は多くを語らなかったが、ベツィーさんの孫娘のエリザベス(Elizabeth)さんは「隣国の大統領だったらよかったのに」と述べたとされる。

 だが一方のマンデラ氏は、オラニアでは「(黒人地区の)ソウェト(Soweto)に行ったかのような(良い)扱いを受けた」と語り、礼儀と寛大さを示した。

 これに先立つ1994年4月27日、ダーバン(Durban)近郊の学校で、全人種が参加する同国初の選挙で投票に訪れるマンデラ氏を記者団が待っていた。私たち報道陣は皆、「これは現実か?マンデラ氏が投票をするのか?アパルトヘイトは本当に終わるのか?」と思っていた。

 それは本当だった。マンデラ氏は「全ての南アフリカ人が平等な、新しい南アフリカ」の夜明けだと宣言すると、自ら投票箱に票を投じ、文字通り朝日で体を輝かせ、長く、幸せそうな笑みを浮かべた。

 その笑顔は、報道陣に撮影させるために作るような笑顔ではなかった。魂の奥底からわき上がる笑顔。そしてマンデラ氏の場合、それは非常に希有(けう)な魂だった。(c)AFP/Bryan Pearson


この記事を執筆したAFPの中東英語部門のブライアン・ピアーソン(Bryan Pearson)デスクは、マンデラ氏が釈放された1990年から南ア初の黒人大統領としての任期を終える99年までAFPの特派員としてヨハネスブルクに駐在していました。