70年代にポル・ポトと会見した米国人記者、カンボジア特別法廷で証言へ
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【2月24日 AFP】1970年代後半、カンボジアの実権を掌握していた共産主義勢力ポル・ポト派(クメールルージュ、Khmer Rouge)の招待で同国を訪れた2人の米国人記者が見たものは、人気のない道や子どものいない学校、笑い声がいっさい聞こえない首都プノンペン(Phnom Penh)だった。
その1人、エリザベス・ベッカー(Elizabeth Becker)氏(64)は当時、指導者ポル・ポトとの貴重な会見を果たした。
滞在中、あらかじめ設定が決められた映画セットのような雰囲気の中であれば、写真を撮る機会は何度もあった。しかし凝縮された2週間の日程を終えて、ベッカー氏はポル・ポト政権の「狂気」を確信するに至った。2人とともにカンボジアを訪問していた英国人学者のマルコム・コールドウェル(Malcolm Caldwell)氏は、滞在中に殺害された。
米ワシントン・ポスト(Washington Post)の記者を引退したベッカー氏は今、当時撮影した写真やポル・ポトのインタビューの録音テープをカンボジアで初めて公開するために、30年以上の時を経てプノンペンに舞い戻った。同時にベッカー氏は、旧ポル・ポト政権による大量虐殺を裁くカンボジア特別法廷(Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia、ECCC)で証言する準備も進めている。
ベッカー氏が証言を予定しているのは被告のうち3人の裁判だ。その中にはベッカー氏が1978年にカンボジアを訪問した際にビザを手配した、ポル・ポト政権ナンバー3のイエン・サリ(Ieng Sary)元副首相兼外相も含まれている。
3被告は、そろって罪状を否認しているが、1975~79年のポル・ポト政権時代に犯したとされる人道に対する罪などで裁かれている。同政権下では、飢えや強制労働、処刑などによって最大で200万人が死亡したとみられている。
極端な共産主義革命を推し進めたポル・ポト政権は、「農村ユートピア」を築くというスローガンの下、貨幣や宗教を否定し、都市から人を追い出し、何百万人もを強制労働に従事させた。鎖国状態にあったカンボジアの内部で進行していた事実を、世界は当時、知ることはなかった。
■見せかけで上塗りされた狂気
ベッカー氏が訪れたのは政権末期の1978年12月で、ベトナムのカンボジア侵攻はすぐそこに迫っていた。ポル・ポト派はベトナムの攻撃をかわそうと、遅ればせながらも国際支援を求めており、そこで始めたのが彼らの「革命」を肯定的に見せる広報戦略だった。
「彼らは、それまで世界から完全に自分たちを隔離していた。だから(ベトナムからの脅威にさらされて)友人なり助けなりが緊急に必要となったのだ」(ベッカー氏)
70年代初期に、このプノンペンで戦争特派員としてキャリアをスタートしたベッカー氏は、ベトナム戦争の取材経験を持つリチャード・ダッドマン(Richard Dudman)記者、英国人のコールドウェル氏と共にポル・ポト政権の招待を受けた。ベッカー氏にビザが発行されたのは異例だったと言える。マルクス研究者のコールドウェル氏がポル・ポト派の「革命」に好意的な本を執筆していた一方で、ベッカー氏はカンボジアを脱出してきた難民たちの恐るべき話から、すでに政権に批判的な記事を何本か書いていたからだ。
滞在中の3人は、「自宅軟禁に等しい状態」にあり、常に武装した兵士に「護衛」されていたという。しかし、果敢な記者精神を持っていたベッカー氏は、何回か護衛らの「目を盗み」、美しく整備された新築の建物や手入れの行き届いた公園の裏側では「何もかもが腐敗するにまかされていた」ことを見て取った。
見学に訪れた農村共同体のモデル集落では、健康そうな村人たちが農作業をしていたが、それも非現実なものにしか映らなかった。「わたしは自分の目に『入ってこなかったもの』に不安を煽られた。次の角を曲がれば本当の日常が現れるかもしれない、そう思っても、それは決して起こらなかった。路上にも学校にも子どもの姿はなく、パゴダ(仏塔)にも人の姿はない。市場も、笑い声も、何もなかった」
■同行していた英国人学者は・・・
カンボジア滞在の最終日、ベッカー氏とダッドマン氏は欧米人記者として、クメールルージュ時代に最初で最後となるポル・ポトへのインタビューを行った。ポル・ポトの印象について「想像していたよりもずっとカリスマ性があり、端正だった」とベッカー氏は振り返る。ポル・ポトは2人にベトナムとの戦争の脅威について「講義」し、北大西洋条約機構(NATO)にクメールルージュを支援してほしいのだと語った。「NATOが自分の側についてくれると考えるなんて、それだけでポル・ポトがいかに死に物狂いの状況だったかが分かる」(ベッカー氏)
一方、ポル・ポト政権に好意的だったマルクス研究者のコールドウェル氏は、記者たちとは別にポル・ポトと2人きりで会見した。その数時間後、同氏は宿泊していた施設で射殺体で見つかった。この死の真相は謎のままだが、ベッカー氏は当時、宿泊施設の中で銃を持った男を見かけたという。これぞクメールルージュの狂気だと、ベッカー氏は語る。「自国民を見境なく殺りくしていた政権を相手に、なぜコールドウェル氏が殺されたのか合理的な理由を探そうとしても、それが意味をなすのかどうか、わたしには分からない」
コールドウェル氏の遺体とともに、ベッカー氏とダッドマン氏がカンボジアを離れてから2日後の1978年12月25日、カンボジアに侵攻したベトナム軍は1月7日までにプノンペンを掌握。ポル・ポト政権は追放されたが、ポル・ポトは逃げ込んだジャングルからゲリラ戦を続けた。そしてクメールルージュ時代の行為について裁きを受けることはないまま、1998年に最期を迎えた。
カンボジア特別法廷の裁判で、高齢となった証言者たちはしばしば、遠くなった記憶の問題に悩まされるが、ベッカー氏はまったく心配していない。「わたしは記憶に頼る必要はない。取材のメモがあり、録音がある。これは記者の有利な点だ」(c)AFP/Michelle Fitzpatrick
その1人、エリザベス・ベッカー(Elizabeth Becker)氏(64)は当時、指導者ポル・ポトとの貴重な会見を果たした。
滞在中、あらかじめ設定が決められた映画セットのような雰囲気の中であれば、写真を撮る機会は何度もあった。しかし凝縮された2週間の日程を終えて、ベッカー氏はポル・ポト政権の「狂気」を確信するに至った。2人とともにカンボジアを訪問していた英国人学者のマルコム・コールドウェル(Malcolm Caldwell)氏は、滞在中に殺害された。
米ワシントン・ポスト(Washington Post)の記者を引退したベッカー氏は今、当時撮影した写真やポル・ポトのインタビューの録音テープをカンボジアで初めて公開するために、30年以上の時を経てプノンペンに舞い戻った。同時にベッカー氏は、旧ポル・ポト政権による大量虐殺を裁くカンボジア特別法廷(Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia、ECCC)で証言する準備も進めている。
ベッカー氏が証言を予定しているのは被告のうち3人の裁判だ。その中にはベッカー氏が1978年にカンボジアを訪問した際にビザを手配した、ポル・ポト政権ナンバー3のイエン・サリ(Ieng Sary)元副首相兼外相も含まれている。
3被告は、そろって罪状を否認しているが、1975~79年のポル・ポト政権時代に犯したとされる人道に対する罪などで裁かれている。同政権下では、飢えや強制労働、処刑などによって最大で200万人が死亡したとみられている。
極端な共産主義革命を推し進めたポル・ポト政権は、「農村ユートピア」を築くというスローガンの下、貨幣や宗教を否定し、都市から人を追い出し、何百万人もを強制労働に従事させた。鎖国状態にあったカンボジアの内部で進行していた事実を、世界は当時、知ることはなかった。
■見せかけで上塗りされた狂気
ベッカー氏が訪れたのは政権末期の1978年12月で、ベトナムのカンボジア侵攻はすぐそこに迫っていた。ポル・ポト派はベトナムの攻撃をかわそうと、遅ればせながらも国際支援を求めており、そこで始めたのが彼らの「革命」を肯定的に見せる広報戦略だった。
「彼らは、それまで世界から完全に自分たちを隔離していた。だから(ベトナムからの脅威にさらされて)友人なり助けなりが緊急に必要となったのだ」(ベッカー氏)
70年代初期に、このプノンペンで戦争特派員としてキャリアをスタートしたベッカー氏は、ベトナム戦争の取材経験を持つリチャード・ダッドマン(Richard Dudman)記者、英国人のコールドウェル氏と共にポル・ポト政権の招待を受けた。ベッカー氏にビザが発行されたのは異例だったと言える。マルクス研究者のコールドウェル氏がポル・ポト派の「革命」に好意的な本を執筆していた一方で、ベッカー氏はカンボジアを脱出してきた難民たちの恐るべき話から、すでに政権に批判的な記事を何本か書いていたからだ。
滞在中の3人は、「自宅軟禁に等しい状態」にあり、常に武装した兵士に「護衛」されていたという。しかし、果敢な記者精神を持っていたベッカー氏は、何回か護衛らの「目を盗み」、美しく整備された新築の建物や手入れの行き届いた公園の裏側では「何もかもが腐敗するにまかされていた」ことを見て取った。
見学に訪れた農村共同体のモデル集落では、健康そうな村人たちが農作業をしていたが、それも非現実なものにしか映らなかった。「わたしは自分の目に『入ってこなかったもの』に不安を煽られた。次の角を曲がれば本当の日常が現れるかもしれない、そう思っても、それは決して起こらなかった。路上にも学校にも子どもの姿はなく、パゴダ(仏塔)にも人の姿はない。市場も、笑い声も、何もなかった」
■同行していた英国人学者は・・・
カンボジア滞在の最終日、ベッカー氏とダッドマン氏は欧米人記者として、クメールルージュ時代に最初で最後となるポル・ポトへのインタビューを行った。ポル・ポトの印象について「想像していたよりもずっとカリスマ性があり、端正だった」とベッカー氏は振り返る。ポル・ポトは2人にベトナムとの戦争の脅威について「講義」し、北大西洋条約機構(NATO)にクメールルージュを支援してほしいのだと語った。「NATOが自分の側についてくれると考えるなんて、それだけでポル・ポトがいかに死に物狂いの状況だったかが分かる」(ベッカー氏)
一方、ポル・ポト政権に好意的だったマルクス研究者のコールドウェル氏は、記者たちとは別にポル・ポトと2人きりで会見した。その数時間後、同氏は宿泊していた施設で射殺体で見つかった。この死の真相は謎のままだが、ベッカー氏は当時、宿泊施設の中で銃を持った男を見かけたという。これぞクメールルージュの狂気だと、ベッカー氏は語る。「自国民を見境なく殺りくしていた政権を相手に、なぜコールドウェル氏が殺されたのか合理的な理由を探そうとしても、それが意味をなすのかどうか、わたしには分からない」
コールドウェル氏の遺体とともに、ベッカー氏とダッドマン氏がカンボジアを離れてから2日後の1978年12月25日、カンボジアに侵攻したベトナム軍は1月7日までにプノンペンを掌握。ポル・ポト政権は追放されたが、ポル・ポトは逃げ込んだジャングルからゲリラ戦を続けた。そしてクメールルージュ時代の行為について裁きを受けることはないまま、1998年に最期を迎えた。
カンボジア特別法廷の裁判で、高齢となった証言者たちはしばしば、遠くなった記憶の問題に悩まされるが、ベッカー氏はまったく心配していない。「わたしは記憶に頼る必要はない。取材のメモがあり、録音がある。これは記者の有利な点だ」(c)AFP/Michelle Fitzpatrick