【2月23日 AFP】シリア中部の反体制派の拠点ホムス(Homs)で22日、取材活動中に政府軍の砲撃を受けて死亡した英紙サンデー・タイムズ(Sunday Times)の米国人ベテラン戦争特派員、メリー・コルビン(Marie Colvin)氏(56)は、その勇気と献身的な取材ぶりを象徴する黒い眼帯で知られていた。

 一方、同じく死亡したフリーランスの仏人報道写真記者、レミ・オシュリク(Remi Ochlik)氏(28)は、取材対象に「可能な限り近づく」姿勢が評価され、世界報道写真コンテストで賞を獲得した期待の若手だった。

■紛争取材のプロフェッショナルだったコルビン氏

 米ロングアイランド(Long Island)生まれのコルビン氏は、エール大(Yale University)卒業後、UPI通信で夜勤の警察番記者としてキャリアをスタートした。その後、同通信パリ支局長を務め、1986年にサンデー・タイムズに入社。英ロンドン(London)を拠点に、レバノン内戦や第1次湾岸戦争、チェチェン紛争、東ティモール紛争と、四半世紀にわたって世界の紛争・戦争を取材し、最近は中東各地から「アラブの春」を報じていた。

 紛争に巻き込まれた人々について伝えることを信条に、危険な場所に長く身を置くことも厭わなかった。2001年にスリランカ内戦を取材していた際に手榴弾の破片が当たり、左目を失明。この怪我でコルビン氏は心的外傷後ストレス障害(PTSD)を負ったが、取材競争を続けることによってそれを克服したと同僚は評している。この時から着けている黒い眼帯は、コルビン氏のシンボルとなった。

 死の数時間前にも、コルビン氏はホムスから英BBCテレビに電話で強烈な光景を伝えた。それは、爆弾の金属片が当たった2歳の男児の話だった。「今日、幼い子どもが死ぬ現場に居合わせました。本当に恐ろしい状況でした。小さなお腹を波打たせながら、彼は死んでいきました」

 サンデー・タイムズはコルビン氏の最後の特報となった19日掲載の記事を、無料でオンライン公開した。そこでコルビン氏はホムスについて、次のように書いている。「ここは、砲弾と銃撃戦の音がこだまする冷気と飢えの街だ。人びとのくちびるは、こう問いかけている。『私たちは世界から見捨てられてしまったのか』」

■学生時代から現地取材に飛んだオシュリク氏

 コルビン氏と一緒に死亡したオシュリク氏は、短いキャリアの中で鮮烈な取材活動を行い、将来を期待される報道写真記者だった。

 仏ロレーヌ(Lorraine)地方生まれ。まだパリ(Paris)の写真学校の学生だった2004年2月、ハイチに渡り、ジャンベルトラン・アリスティド(Jean-Bertrand Aristide)大統領を失脚させた一連の反乱を単独取材した。2008年にはコンゴ紛争、2010年には再びハイチのコレラ流行や大統領選、2011年にはチュニジア、エジプト、リビアで「アラブの春」を取材。今年に入り、リビア取材で「2012世界報道写真コンテスト」の一般ニュース部門で最高賞を受賞していた。

 2003年に研修生としてオシュリク氏が働いた写真エージェンシー、Wostok Pressのフランク・メダン(Franck Medan)氏は「20歳にして既に、可能な限り、事件の近くへ迫ろうとする偉大な写真家だった」と述べている。今回は、2005年に共同設立した写真エージェンシーの仕事でシリアを取材していた。オシュリク氏が残した報道写真の数々は「www.ochlik.com」で見ることができる。

■コルビン氏が語った戦場記者の使命と宿命

 ロンドンの新聞街フリート・ストリート(Fleet Street)にあり、「ジャーナリストの教会」として知られるセントブライズ教会(St Brides Church)には、殉職したジャーナリストたちの「聖堂」に2人の写真が加えられた。22日の英紙タイムズ(The Times)によると、コルビン氏は2010年にこの教会でスピーチをした際、自らの職業の危険性を十分自覚した言葉を遺している。

  「私たちの使命は、戦争の恐怖を正確に、先入観抜きに報道すること。私たちはいつも自問する必要がある。取材のリスクはその報道内容に見合うものなのかと。何が真の勇気で、何が虚勢なのかと。戦闘を伝えるジャーナリストは大きな責任を負い、難しい選択と向き合っている。そして時に究極の犠牲を払うこともある」

 (c)AFP/Danny Kemp

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