【8月10日 AFP】米国で教育を受けたグルジアのミハイル・サーカシビリ(Mikheil Saakashvili)大統領(40)は、西側諸国を支持する革命で権力の座に押し上げられて以来、旧ソ連の小国グルジアをロシアの衛星国の立場から離れさせることを長い間夢見てきた。

 サーカシビリ大統領の夢は、分離・独立を求める南オセチア(South Ossetia)自治州でのロシア軍とグルジア軍との衝突、そしてグルジアへのロシア軍の空爆によって粉々に砕かれようとしている。

 サーカシビリ大統領はこの最大の試練にあたり、これまで以上に自由主義諸国、とりわけ米国の支持を必要としている。

 サーカシビリ氏は8日、「我々は自由を愛する国だ。そして今攻撃されている」と述べ、「1979年の(旧ソ連による)アフガニスタン侵攻と同じだ。ソ連やロシアの戦車がチェコに進攻したときと同じだ。ロシアをグルジアで見過ごすことがあれば、世界は問題をかかえることになるだろう」と説明した。

■米国の大学院卒業、法律事務所に勤務

 米コロンビア大学ロースクール(Columbia Law School)を卒業したサーカシビリ大統領は、グルジアで政界に誘われるまで、ニューヨーク(New York)の法律事務所に勤務していた。

 サーカシビリ氏が米国での生活について話すときはいつも懐かしそうで、NBAのニューヨーク・ニックス(New York Knicks)戦を観戦したことや、セントラルパーク(Central Park)を歩いた思い出話を語る。

 エドゥアルド・シェワルナゼ(Eduard Shevardnadze)大統領政権で法相に就任したサーカシビリ氏は、政治腐敗に対し抗議して辞任し、政党「国民運動(United National Movement)」を組織した。「国民運動」は現在、グルジアの与党となっている。

■「バラ革命」で権力の座に

 サーカシビリ氏は、2003年の議会選に問題があったとして数千人のグルジア国民とともにトビリシ(Tbilisi)で抗議活動を行い、シェワルナゼ大統領を辞任に追い込んだ「バラ革命(Rose Revolution)」の親欧米的な若手リーダーの1人だった。

「バラ革命」の指導者の中で最もカリスマ的だったサーカシビリ氏は、04年初頭の大統領選挙で国民的な支持の波に乗って権力の座に上りつめた。

 サーカシビリ氏は即座に全面的な自由市場化改革に着手し、西側諸国に対し軍事同盟「北大西洋条約機構(North Altantic Treaty OrganisationNATO)」への加盟を支持するよう熱いラブコールを送り、欧米諸国との親密な関係を築いた。

 またサーカシビリ氏は、分離・独立を求める南オセチアとアブハジア(Abkhazia)自治共和国の再支配を約束し、平和的な手段での実施を約束したものの、軍事力使用の可能性を排除したことはなかった。

 サーカシビリ氏の行動は、米国のジョージ・W・ブッシュ(George W. Bush)大統領など西側諸国から称賛を受け、ブッシュ大統領は05年のトビリシ訪問の際に、グルジアを「民主主義を導く国」と称えた。

■民主化推進、対露関係悪化

 しかし一方で、サーカシビリ氏はロシアの強い怒りを買い、ロシアとの関係は急速に悪化した。

 外交的な危機が繰り返されるなかで、ロシアはグルジアに全面的な経済封鎖を実施し、また、南オセチアとアブハジアへの支援を強化した。

 サーカシビリ大統領は、ロシアがグルジアへの支配を回復しようとしていることに対して、声を荒げて非難し、西側諸国に支持を呼びかけた。

 08年に行われた西側のジャーナリストとのインタビューでサーカシビリ氏は、ロシアの対グルジア政策をナチス・ドイツ(Nazi Germany)と比べ、西側諸国に対しロシアに譲歩しないよう求めた。

 大げさな話しぶりで演説し、食欲旺盛なサーカシビリ氏は、頭に血が上りやすく感情的だと頻繁に非難されてきた。しかし、サーカシビリ氏の支持者らは、同氏の活力とエネルギーがグルジアを再建したとして同氏を情熱的で愛国的な指導者と称える。

サーカシビリ大統領は、1995年にパリ(Paris)で出会ったオランダ人のサンドラ・ルロフス(Sandra Roelofs)夫人との間に2人の子どもがいる。(c)AFP/Michael Mainville