【7月28日 AFP】ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦(1992-95年)の戦犯として、21日にセルビア当局に拘束された当時のセルビア人指導者ラドバン・カラジッチ(Radovan Karadzic)被告(63)が前年5月ウィーン(Vienna)に潜伏中、オーストリア当局が取り逃していたことが明らかになった。26日、詳細を各紙が報じた。

 カラジッチ被告は1995年に国連(UN)の旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(International Criminal Tribunal for the former YugoslaviaICTY)に起訴されてから、前週セルビアの首都べオグラード(Belgrade)で拘束されるまで10年以上、逃亡生活を続けていた。拘束された際には、代替医療の治療者として完全に別人を装っていた。

■オーストリア警察特殊部隊、訪問するも気づかず

 しかし、オーストリア警察の特殊部隊コブラ(Cobra)の捜査チームがウィーン西部のアパートを急襲した際、クロアチア人だと自称したひげ面の男の身元をもう少し慎重に調べていれば、カラジッチ被告はもう少し早く逮捕されていたかもしれない。

 2006年6月から2007年末まで、カラジッチ被告はウィーンに滞在していた。この数か月間、セルビア人女性から部屋をまた借りし、Vesna J.と名乗っていたと、現地「エスタライヒ(Osterreich)」紙や「クローネン・ツァイトゥング(Kronen Zeitung)」紙が報じた。

 オーストリア内務省のRudolf Gollia報道官がAFPに語ったところによると、コブラの捜査チームはそのアパートにいた男を尋問したが、前週の拘束で写真を見て初めてカラジッチ被告だったと認識した。

 当局の発表によると、この捜索を行ったのは2007年5月4日。カラジッチ被告は当時、金属縁の大きな眼鏡をかけ、白髪と白ひげを伸ばして白いパナマ帽をかぶり完全に変装し、ベオグラード在住の医師ドラガン・ダビッチ(Dragan Dabic)だと名乗っていたが、近所のバーでポーカーをめぐり起こった殺人事件にからみ、警察がセルビア人を探してこのアパートを訪ねた際にはパジャマ姿でまったく警戒していなかった。

 突然部屋になだれ込んできた警察に対し、カラジッチ被告はいささか動揺したように見えたが、スレブレニツァ(Srebrenica)で8000人の虐殺を命じたとされる男は、自分はただの旅行者で、ウィーンにヒーラー(治療者)としてトレーニングしに来たと告げた上、探されている男については「数週間見ていない」と言ってのけた。

 オーストリア警察は尋問を終え、カラジッチ被告の供述に満足し、十分に身元確認もせずに去ってしまったという。現場にいた捜査官の一人はオーストリア通信(APA)に対し「戦犯というよりも、こじきに見えた」と述べた。

■提示したのはクロアチアのパスポート
 
 カラジッチ被告がこの時使用していたのは、クロアチア国籍の「Petar Glumac」名義のパスポート。クロアチア人はセルビア人とは異なり、オーストリアの入国にビザは必要としない。「Glumac」はセルビア・クロアチア語で「俳優」を意味する。

 ウィーンのセルビア人コミュニティの人々の中には、カラジッチ被告に外見がよく似た「パラ」と名乗るヒーラーと会ったことがあると証言している。

 カラジッチ被告は逃亡生活中、自らのことを代替医療のヒーリングの導師だとし、マッサージや磁気、薬などを使って、腰痛の患者や不妊症患者、性的機能回復などの治療を患者の家で行っていた。

 ウィーンの地元レストランのマネージャーは「エスタライヒ」紙に対し、カラジッチ被告と断定された男が2007年中「週に2、3回」食事をしに立ち寄っていたが、「そのうち乱暴な政治的ディベートを始めて、クルド人とトルコ人を対立させようとした。それから出入り禁止にした」と述べた。

 しかし、ほかのセルビア人居住者らは日刊紙「プレッセ(Presse)」に対し、報道は作り話だと反論した。(c)AFP