クロアチアとセルビアの初対戦を前にUEFAとFIFAが警笛
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【3月20日 AFP】欧州サッカー連盟(Union of European Football Associations、UEFA)と国際サッカー連盟(FIFA)は19日、22日にザグレブ(Zagreb)で行われるW杯ブラジル大会(2014 World Cup)欧州予選のクロアチア対セルビアの試合を前に、両国に暴力行為を控えるよう警告した。
旧ユーゴスラビア連邦人民共和国の崩壊で独立した両国は、22日にザグレブ(Zagreb)で行われる試合で崩壊後初めてピッチ上で対戦する。
■黄金時代には強豪を誇った旧ユーゴスラビア
サッカーはかつて、人口2200万の旧ユーゴスラビアに誇りを与えたスポーツだった。
政府や国家の後ろ盾もあり、強豪チームや世界クラスの選手・指導者を多く輩出した。また選手が28歳になるまで外国(のチーム)でプレーすることが禁じられていたため、優秀なプレーヤーが国内にとどまり、国内リーグの質は高かった。
しかし1990年代のユーゴ崩壊以降は、1998年サッカーW杯フランス大会(1998 World Cup)で3位に入ったクロアチアを唯一の例外として、旧ユーゴからの独立国がサッカーで好成績を残すことはできていない。
サッカー・旧ユーゴスラビア代表は1960年代に黄金期を迎えた。1960年のローマ五輪では金メダルを獲得し、また同年および1968年にはUEFA欧州選手権で決勝に駒を進めた。1962年のW杯チリ大会では4位の成績を残し、代表選手のドラゼン・イエルコビッチ(Drazen Jerkovic)が大会得点王の栄光にも輝いた。当時の同国代表チームは、その巧みで攻撃的なプレースタイルから「ヨーロッパのブラジル」と呼ばれていた。
元代表選手のヨシップ・スコブラル(Josip "Josko" Skoblar)は、1971年にフランス・リーグ1のオリンピック・マルセイユ(Olympique de Marseille)で44得点を挙げ、欧州の得点王に送られる「ゴールデン・ブーツ」を受賞。またレッドスター・ベオグラード(Red Star Belgrade)に所属していたダルコ・パンチェフ(Darko Pancev)も1991年に同賞を手にしている。
レッドスターは1970~80年代に強豪を誇り、1991年にはチャンピオンズリーグの前身UEFAチャンピオンズカップ(European Cup)と、クラブW杯の前身であるインターコンチネンタルカップ(Intercontinental Cup)で頂点を制した。
■民族主義の波とユーゴ崩壊
しかしユーゴスラビア共産主義者同盟の指導者ヨシップ・ブロズ・チトー(Josip Broz Tito)大統領が1980年に死去すると、以降10年間にわたって民族主義的感情が高まり、多民族が「兄弟愛と統一」という国家スローガンの元団結していた国家は崩壊した。
サッカーでも状況は同じだった。1990年6月にザグレブで開催されたユーゴスラビア対オランダの国際親善試合では、観客の大多数を占めるクロアチア人が旧ユーゴ国歌を罵声でかき消し、選手をやじり飛ばした。
そして1991年6月、ユーゴスラビア紛争が勃発し、旧ユーゴスラビアは崩壊。以降、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア、モンテネグロ、スロベニアが独立した。
旧ユーゴの複数のクラブが、崩壊以前からの法的問題がいまも解決しないなか、経済的な理由から才能のある選手は待遇の良い海外クラブに新天地を求め出ていった。
フーリガンの存在も、独立後の各国サッカーチームに泥を塗ってきた。ボスニア・ヘルツェゴビナとクロアチアでは1990年代に熱狂的なサポーターが民兵組織を立ち上げ対立。抗争は今も続いている。2009年にはセルビアで、パルチザン・ベオグラード(Partizan Belgrade)の超国家主義者のファンがフランス人サポーターを殴り殺すという事件も発生している。
(c)AFP/Ivan LONCAREVIC
旧ユーゴスラビア連邦人民共和国の崩壊で独立した両国は、22日にザグレブ(Zagreb)で行われる試合で崩壊後初めてピッチ上で対戦する。
■黄金時代には強豪を誇った旧ユーゴスラビア
サッカーはかつて、人口2200万の旧ユーゴスラビアに誇りを与えたスポーツだった。
政府や国家の後ろ盾もあり、強豪チームや世界クラスの選手・指導者を多く輩出した。また選手が28歳になるまで外国(のチーム)でプレーすることが禁じられていたため、優秀なプレーヤーが国内にとどまり、国内リーグの質は高かった。
しかし1990年代のユーゴ崩壊以降は、1998年サッカーW杯フランス大会(1998 World Cup)で3位に入ったクロアチアを唯一の例外として、旧ユーゴからの独立国がサッカーで好成績を残すことはできていない。
サッカー・旧ユーゴスラビア代表は1960年代に黄金期を迎えた。1960年のローマ五輪では金メダルを獲得し、また同年および1968年にはUEFA欧州選手権で決勝に駒を進めた。1962年のW杯チリ大会では4位の成績を残し、代表選手のドラゼン・イエルコビッチ(Drazen Jerkovic)が大会得点王の栄光にも輝いた。当時の同国代表チームは、その巧みで攻撃的なプレースタイルから「ヨーロッパのブラジル」と呼ばれていた。
元代表選手のヨシップ・スコブラル(Josip "Josko" Skoblar)は、1971年にフランス・リーグ1のオリンピック・マルセイユ(Olympique de Marseille)で44得点を挙げ、欧州の得点王に送られる「ゴールデン・ブーツ」を受賞。またレッドスター・ベオグラード(Red Star Belgrade)に所属していたダルコ・パンチェフ(Darko Pancev)も1991年に同賞を手にしている。
レッドスターは1970~80年代に強豪を誇り、1991年にはチャンピオンズリーグの前身UEFAチャンピオンズカップ(European Cup)と、クラブW杯の前身であるインターコンチネンタルカップ(Intercontinental Cup)で頂点を制した。
■民族主義の波とユーゴ崩壊
しかしユーゴスラビア共産主義者同盟の指導者ヨシップ・ブロズ・チトー(Josip Broz Tito)大統領が1980年に死去すると、以降10年間にわたって民族主義的感情が高まり、多民族が「兄弟愛と統一」という国家スローガンの元団結していた国家は崩壊した。
サッカーでも状況は同じだった。1990年6月にザグレブで開催されたユーゴスラビア対オランダの国際親善試合では、観客の大多数を占めるクロアチア人が旧ユーゴ国歌を罵声でかき消し、選手をやじり飛ばした。
そして1991年6月、ユーゴスラビア紛争が勃発し、旧ユーゴスラビアは崩壊。以降、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア、モンテネグロ、スロベニアが独立した。
旧ユーゴの複数のクラブが、崩壊以前からの法的問題がいまも解決しないなか、経済的な理由から才能のある選手は待遇の良い海外クラブに新天地を求め出ていった。
フーリガンの存在も、独立後の各国サッカーチームに泥を塗ってきた。ボスニア・ヘルツェゴビナとクロアチアでは1990年代に熱狂的なサポーターが民兵組織を立ち上げ対立。抗争は今も続いている。2009年にはセルビアで、パルチザン・ベオグラード(Partizan Belgrade)の超国家主義者のファンがフランス人サポーターを殴り殺すという事件も発生している。
(c)AFP/Ivan LONCAREVIC