【7月9日 AFP】国際テロ組織アルカイダ(Al-Qaeda)の最高指導者だったウサマ・ビンラディン(Osama bin Laden)容疑者がパキスタンに9年以上も潜伏できたのは、同国当局の「失敗」や「無能さ」、そして「怠慢」が原因だとする報告書を同国の独立調査委員会がまとめていたことが8日、明らかになった。

 ビンラディン容疑者は、米中央情報局(CIA)によってパキスタン北部アボタバード(Abbottabad)に潜伏していることが突き止められた後、2011年5月2日に米海軍特殊部隊「シールズ(SEALs)」が実施した急襲作戦で射殺された。
 
 作戦から間もなく、パキスタン政府は独立した調査が必要だという議会からの要請を受けて調査委員会を設置。委員会は軍と政府の複数の高官に聞き取り調査を行ったほか、ビンラディン容疑者の3人の妻からも事情を聞いた。3人の妻は委員会の調査を受けた後、サウジアラビアに強制送還されている。

 委員会の調査結果は公表されていなかったが、中東の衛星テレビ局アルジャジーラ(Al-Jazeera)が8日、その内容を報じた。

■当局の「怠慢や無能さ」を厳しく批判

 336ページに上るこの調査報告書には、「非難に値する怠慢や無能さが、政府のほぼ全ての階層において存在したことは、関係者の証言によりある程度決定的に断定できる」などと書かれており、パキスタンの情報機関や軍の面目を大きく損なう内容になっている。

 調査委員会は、パキスタンの当局者がアルカイダと共謀していたとの疑惑を裏付ける情報はなかったとしつつも、現職または当時の当局者らが「もっともらしく否定することが可能な支援」を提供していた可能性を完全に否定することはできなかったとしている。

「不良分子が見て見ぬふりをしていたとしても、(パキスタンの情報機関)3軍統合情報部(ISI)のような機関にとって怠慢や無能さはそれよりもはるかに深刻な問題だ」(同報告書)

■ビンラディン容疑者の新情報も

 報告書には、米軍主導で行われた2001年のアフガニスタン侵攻を逃れ、2002年の春から夏の間にパキスタンに入った後のビンラディン容疑者の生活についての新しい情報も書かれている。

 ビンラディン容疑者は、2005年8月にアボタバードに移り住む前は、パキスタン北西部のスワト(Swat)地区やハリプール(Haripur)地区に潜伏していた。アフガニスタンとの国境に近い他の地区にいたこともあるとみられている。

 報告書によると、ビンラディン容疑者に主な支援ネットワークを提供していたパキスタン人2人のうち既に死亡した男性の妻は、スワト地区でビンラディン容疑者らと一緒に車で移動していたときにスピード違反で警官に止められたことがあったが、この女性の夫が「すぐさま警察官と話を付けて」、そのまま車で移動を続けたと証言したという。

 ビンラディン容疑者の妻たちの証言によると、同容疑者は屋敷を歩き回るときには気付かれないようにカウボーイハットをかぶり、病気になればアラブの伝統薬を使って自分で治療していた。また元気が出ないときはチョコレートやリンゴをつまんでいたという。

■「東パキスタン分離以来の屈辱」

 一方でISIは、ビンラディン容疑者がアボタバードに移ってきた2005年に同容疑者の捜査を打ち切っている。パキスタン政府は、同容疑者が恐らくパキスタン国内に潜伏しているという外国からの通報を真剣に受け止めることも、同容疑者の潜伏に軍が関与した疑いを検討することもなかったという。

 ビンラディン容疑者が住んでいた変わった形の邸宅は、通常ではない警備が敷かれ、インターネットも通じておらず、鉄条網が張られ、訪れる人や車もないなどといった変わった点があったにもかかわらず、パキスタン当局は6年近くもこの住居に関心を持つことはなかった。この邸宅にいる人は25人を下回ったことはなかったにもかかわらず、住居調査で無人の家とされていたのは「驚くべきだ」と報告書は述べている。

 報告書は、これらの変わった点をきちんと調べていれば、米軍がパキスタン国内で軍事作戦に踏み切るという結果にはならなかったかもしれないと指摘し、米軍によるこの作戦はパキスタンにとって、東パキスタンがパキスタンから分離し、バングラデシュとして独立した1971年以来「最大の屈辱」だったと述べた。(c)AFP