【6月24日 AFP】反アパルトヘイト(人種隔離)闘争で27年間にわたって獄中生活を送った後、「自由への長い道」に乗り出したネルソン・マンデラ(Nelson Mandela)氏──後に南アフリカ初の黒人大統領となり、ノーベル平和賞を受賞した。

 近年は公の場に姿を見せることはほとんどなくなったが、今なお世界で最も愛される人物の1人であり続けている。

■最貧地区に生まれ反アパルトヘイトの闘士へ

 マンデラ氏は1918年7月18日、南アフリカでも最貧地区の1つ、トランスカイ(Transkei)にあるムベゾ(Mvezo)村で、テンブ人の首長の家庭にホリシャシャ・マンデラ(Rolihlahla Dalibhunga Mandela)として生まれた。「ネルソン」は学校の教師に名付けてもらった英語名だ。

 学生時代に活動家となり、52年にヨハネスブルク(Johannesburg)に黒人として初めて法律事務所を開設した。

 61年にアフリカ民族会議(ANC)の地下武装組織「ウムコント・ウェ・シズウェ(Umkhonto we Sizwe、民族の槍)」の最高司令官となり、翌62年にはアルジェリアとエチオピアで軍事訓練を受けた。だが、64年に逮捕・起訴され、終身刑を言い渡された。このとき裁判でマンデラ氏が行った演説は、反アパルトヘイト運動のマニフェスト(宣言)となった。

「私は白人による支配に対して戦ってきた。黒人による支配に対しても戦ってきた。全ての人が平等な機会の下で暮らす民主的で自由な社会という理想を私は抱いてきた。(中略)この理想のために、死ぬ覚悟もできている」

■釈放、選挙、大統領就任──「虹の国」目指す

 マンデラ氏はロベン島(Robben Island)に18年間収容された後、82年にケープタウン(Cape Town)のポールスモア(Pollsmoor)刑務所に移送された。その後、郊外パール(Paarl)のビクター・フェルスター(Victor Verster)刑務所に再移送された。

 国際社会が南アフリカに対し経済制裁で圧力を強める中、89年に強硬派のP・W・ボタ(P.W. Botha)大統領が辞任し、融和的なフレデリク・デクラーク(Frederik de Klerk)大統領が就任。90年2月11日、マンデラ氏は釈放された。93年、マンデラ氏とデクラーク氏はノーベル平和賞を共同受賞した。

 94年、初の全人種参加による総選挙が行われ、マンデラ氏も人生で初めて投票を行った。この選挙をめぐっては直前に衝突が起き、多数が死亡している。選挙の結果を受け、マンデラ氏が議会で大統領に選出された。

 黒人たちの尊厳を回復すると同時に、変化を恐れる白人たちの不安を取り除く和解政策に着手したマンデラ氏は、大統領就任演説で次のように宣言した。「私たちは1つの契約を結んだ。黒人も白人も、全ての南アフリカ人が胸を張って歩くことができ、何かを恐れることなく、人間の尊厳を決して奪われることのない社会――国内外とも平和に包まれた虹の国を築こうという契約だ」

■紛争調停や若者の生活向上、W杯誘致に尽力

 大統領職を1期5年務めたマンデラ氏は、99年に引退。その後はアフリカ中部ブルンジを中心に、各地で紛争の調停に力を注いだ。また、長い獄中生活で子供たちの成長をそばで見ることができなかった経験から、若者たちの生活向上に力を注ぎ、資金を集めて、へき地における学校建設を進めた。

 ウィニー・マンデラ(Winnie Madikizela-Mandela)夫人と離婚したマンデラ氏は98年、80歳の誕生日に、モザンビークの故・サモラ・マシェル(Samora Machel)元大統領の夫人だったグラサ・マシェル(Graca Machel)さんと再婚した。83歳のときに前立腺がんと診断されたが、治療に成功。2004年5月、家族や友人との「もっと静かな生活」を楽しむために、公務を減らすことを発表した。

 09年、国連(United Nation)はマンデラ氏の誕生日を「ネルソン・マンデラ国際デー(Nelson Mandela International Day)」に設定した。

 マンデラ氏は、アフリカ大陸での初開催を目指した2010年サッカーW杯南アフリカ大会(2010 World Cup)の誘致にも尽力。本大会決勝戦ではスタジアムに姿を見せ、観衆を喜ばせた。

 大会後、南アのジェイコブ・ズマ(Jacob Zuma)大統領は、W杯開催によってマンデラ氏の理想実現が近づいたとコメント。「タタ(お父さん)、あなたの夢にわれわれはとても近づいた。成功を祝い共に働く多様性の中に結束した1つの国になった」と述べた。(c)AFP