サッチャー元首相死去に苦い感慨、英国と戦ったアルゼンチンの人々
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【4月9日 AFP】英国のマーガレット・サッチャー(Margaret Thatcher)元首相の死去を受けて、フォークランド諸島(Falkland Islands、アルゼンチン名:マルビナス諸島、Islas Malvinas)の領有権をめぐってサッチャー首相時代の英国と戦火を交えたアルゼンチンの人々は、苦い感慨を抱いている。
1982年のフォークランド紛争に従軍したアルゼンチンの退役軍人の中には、喜びをもってサッチャー氏の訃報を聞いた人もいる。ある退役軍人(71)は「あの憎たらしい女が死んだこの日に神の祝福を」と言う。「あの女は本当に嫌な人間だよ。英国内の選挙に勝ちたいがために戦争を始めたんだ」
一方、マルビナス退役軍人センターのマリオ・ボルペ(Mario Volpe)氏は、フォークランド紛争に関してサッチャー氏が罰を受けることも法の裁きを受けることもないまま死去したことに不満をもらす。ボルペ氏は、サッチャー元首相が当時のアルゼンチンの軍事政権と和平交渉を行う機会を無視して、英軍にアルゼンチン海軍の巡洋艦ヘネラル・ベルグラノ(General Belgrano)の撃沈を許可したことを批判する。
1982年5月2日のベルグラノ撃沈に先立ち、米国と中南米諸国などが加盟する米州機構(Organization of American States、OAS)は英国とアルゼンチンに和平案を提示していた。「彼女は平和に貢献した人物として記憶されるべきではない。停戦の機会が提示されたのに彼女は受け入れなかった。それどころか攻撃を激化させたのだ」とボルペ氏は言う。
■「冷酷」だった「鉄の女」
ベルグラノの撃沈ではアルゼンチン海軍の323人が死亡した。これは74日間続いたフォークランド紛争におけるアルゼンチン側の戦死者649人の半数近くを占める。一方、同紛争での英国側の戦死者は255人だった。ボルペ氏は、肺と肩に重傷を負ってフォークランド紛争から帰還した。
当時、アルゼンチンはレオポルド・ガルティエリ(Leopoldo Galtieri)大統領が軍事政権を率いていた。ボルペ氏は「ベルグラノを撃沈することによって戦いを継続させると決断したサッチャーは、ガルティエリと同程度に成り下がったということだ」と断じる。ガルティエリ大統領は、国民から支持を得る目的でフォークランド諸島への侵攻を決断したとされている。
学校に入った最初の日からあの諸島は自国領だと教えられるアルゼンチン人の多くはそれを事実だと信じているが、だからといってフォークランド紛争に至った軍事政権の判断を支持しているとは限らない。
フォークランド紛争が始まった1982年4月2日に生まれたカルロス・ディアス(Carlos Diaz)さん(31)は、「まず、アルゼンチンを必要のない戦いに導き、ろくに訓練も受けていない少年たちの生命を危機にさらしたことについて、わが国の指導者たちは正式に謝罪すべきだ」と言う。
一方、サッチャー元英首相については、「国際法上はアルゼンチン側に理があると知りながら、軍事力で劣るアルゼンチンとの戦争を積極的に選んだ」と批判する。「彼女は冷酷さをもって紛争に対処し、あの諸島の石油資源と英国人住民を守ったんだ」(c)AFP/Daniel Merolla
1982年のフォークランド紛争に従軍したアルゼンチンの退役軍人の中には、喜びをもってサッチャー氏の訃報を聞いた人もいる。ある退役軍人(71)は「あの憎たらしい女が死んだこの日に神の祝福を」と言う。「あの女は本当に嫌な人間だよ。英国内の選挙に勝ちたいがために戦争を始めたんだ」
一方、マルビナス退役軍人センターのマリオ・ボルペ(Mario Volpe)氏は、フォークランド紛争に関してサッチャー氏が罰を受けることも法の裁きを受けることもないまま死去したことに不満をもらす。ボルペ氏は、サッチャー元首相が当時のアルゼンチンの軍事政権と和平交渉を行う機会を無視して、英軍にアルゼンチン海軍の巡洋艦ヘネラル・ベルグラノ(General Belgrano)の撃沈を許可したことを批判する。
1982年5月2日のベルグラノ撃沈に先立ち、米国と中南米諸国などが加盟する米州機構(Organization of American States、OAS)は英国とアルゼンチンに和平案を提示していた。「彼女は平和に貢献した人物として記憶されるべきではない。停戦の機会が提示されたのに彼女は受け入れなかった。それどころか攻撃を激化させたのだ」とボルペ氏は言う。
■「冷酷」だった「鉄の女」
ベルグラノの撃沈ではアルゼンチン海軍の323人が死亡した。これは74日間続いたフォークランド紛争におけるアルゼンチン側の戦死者649人の半数近くを占める。一方、同紛争での英国側の戦死者は255人だった。ボルペ氏は、肺と肩に重傷を負ってフォークランド紛争から帰還した。
当時、アルゼンチンはレオポルド・ガルティエリ(Leopoldo Galtieri)大統領が軍事政権を率いていた。ボルペ氏は「ベルグラノを撃沈することによって戦いを継続させると決断したサッチャーは、ガルティエリと同程度に成り下がったということだ」と断じる。ガルティエリ大統領は、国民から支持を得る目的でフォークランド諸島への侵攻を決断したとされている。
学校に入った最初の日からあの諸島は自国領だと教えられるアルゼンチン人の多くはそれを事実だと信じているが、だからといってフォークランド紛争に至った軍事政権の判断を支持しているとは限らない。
フォークランド紛争が始まった1982年4月2日に生まれたカルロス・ディアス(Carlos Diaz)さん(31)は、「まず、アルゼンチンを必要のない戦いに導き、ろくに訓練も受けていない少年たちの生命を危機にさらしたことについて、わが国の指導者たちは正式に謝罪すべきだ」と言う。
一方、サッチャー元英首相については、「国際法上はアルゼンチン側に理があると知りながら、軍事力で劣るアルゼンチンとの戦争を積極的に選んだ」と批判する。「彼女は冷酷さをもって紛争に対処し、あの諸島の石油資源と英国人住民を守ったんだ」(c)AFP/Daniel Merolla