カストロ氏の一言で始まった、チャベス大統領の闘病生活
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【1月9日 AFP】就任から10日で15年目になるベネズエラのウゴ・チャベス(Hugo Chavez)大統領(58)のがんとの闘病生活を、ベネズエラ国民は気をもみながら見守っているが、チャベス氏のがん発見を導いたのはキューバのフィデル・カストロ(Fidel Castro)前国家評議会議長の簡単な質問だった。
チャベス大統領は自分の病について公表した翌日の2011年7月1日にこう振り返っている。「フィデル(・カストロ前議長)の鋭い目を逃れる方法なんて見つからない。彼はまるで父親が子供に聞くように『どこが悪いんだ?どんな痛みだ?』と私に質問し始め…それから医師を呼び出して意見を求めた。彼(カストロ前議長)が世話してくれたんだ」
■カストロ前議長、チャベス氏の「主任医師」に
チャベス大統領が政治における師と仰ぐカストロ前議長は、じきにチャベス氏の「主任医師」となり、キューバの首都ハバナ(Havana)でチャベス氏が受けた化学療法の何回かには付き添いもした。
チャベス氏は長期にわたるがん治療を、これまでハバナ以外では受けていない。これについて社会学者のイグナシオ・アバロス(Ignacio Avalos)氏は、AFPの取材に「キューバ政府は(チャベス大統領に)、安全と政治的な情報管理という二つの根本的な事柄を保証してくれるからだ」と解説する。
カストロ前議長から決定的な質問をされた際のキューバ訪問で、チャベス大統領はブラジルとエクアドルを歴訪した後、左ひざの痛みから杖をついてハバナに降り立った。それがカストロ前議長の目を引いた。検診の後、即座に二つの緊急手術が命じられた。骨盤膿瘍と、チャベス本人が「ほとんど野球のボール大」と表現したがん性腫瘍を除去するためだった。
■政治闘争のスローガンも楽観的に
数週間のうちにベネズエラ国民は大統領の急激な変わりようを目にした。公の場への登場は減り、演説は短くなり、夜型の生活を朝型に切り替え、食生活はコーヒーを減らし果物を増やした。何よりもこの数年間、掲げてきた「祖国に社会主義を、さもなくば死を」という政治闘争のスローガンが、もっと楽観的な「われわれは生きる、われわれは克服する」という文句に置き換わった。
しかし、これまでのところチャベス大統領の闘病生活の道のりは険しい。ユーモアを失うことはなかったが、2011年8月には化学療法の副作用で顔がはれ、頭部の毛が抜けた状態で公に姿を見せ、病を疑っていた国民たちも確信せざるを得なかった。
同年10月、チャベス氏は病は治ったと宣言したが、その半年後には健康問題が再浮上し、最初と同様の部位の腫瘍を除去する手術を受けるためにキューバへ戻らねばならなかった。ハバナでは5クールの放射線治療を受けねばならず、滞在を延長したが、この治療の間、アカウントを開設したツイッター(Twitter)上でチャベス氏は盛んに発信した。
■「左手と片足を縛られたボクサー」
再選によってさらなる任期6年を目指す大統領選の立候補届け出まで1週間と迫った2012年6月上旬には「がん克服宣言」をした。しかし展開されたのは、精力的なことで知られるチャベス氏にしては異例の控えめな選挙戦だった。さらに選挙は得票率55%で勝利し再選を果たしたが、選挙期間中に病気の影響を感じていたことを後になって明かし「放射線治療がなければやっていただろうことの10%」しかできなかったと述べた。また「実際のところ、私は左手と片足を縛られ、もう片方の足で飛び跳ねていたボクサーだった」とも語った。
キューバで新たな検診を受けた後の前月8日、チャベス大統領はがんの新たな再発と、再びキューバで手術を受けなければならないことを発表した。状況の深刻さを示すかのように、チャベス氏は自分が職務を果たせなくなった場合に備え、自分の後継者にニコラス・マドゥロ(Nicolas Maduro)副大統領を指名した。
直近の手術の後、ベネズエラ政府はチャベス大統領が「深刻な肺感染症を発症した」と発表し、大統領の容体が不安視されている。術後は公の場に登場していないだけでなく、写真も発表されていない。政府は8日、10日に予定されていた就任宣誓の延期を発表した。(c)AFP/Ramon Sahmkow
チャベス大統領は自分の病について公表した翌日の2011年7月1日にこう振り返っている。「フィデル(・カストロ前議長)の鋭い目を逃れる方法なんて見つからない。彼はまるで父親が子供に聞くように『どこが悪いんだ?どんな痛みだ?』と私に質問し始め…それから医師を呼び出して意見を求めた。彼(カストロ前議長)が世話してくれたんだ」
■カストロ前議長、チャベス氏の「主任医師」に
チャベス大統領が政治における師と仰ぐカストロ前議長は、じきにチャベス氏の「主任医師」となり、キューバの首都ハバナ(Havana)でチャベス氏が受けた化学療法の何回かには付き添いもした。
チャベス氏は長期にわたるがん治療を、これまでハバナ以外では受けていない。これについて社会学者のイグナシオ・アバロス(Ignacio Avalos)氏は、AFPの取材に「キューバ政府は(チャベス大統領に)、安全と政治的な情報管理という二つの根本的な事柄を保証してくれるからだ」と解説する。
カストロ前議長から決定的な質問をされた際のキューバ訪問で、チャベス大統領はブラジルとエクアドルを歴訪した後、左ひざの痛みから杖をついてハバナに降り立った。それがカストロ前議長の目を引いた。検診の後、即座に二つの緊急手術が命じられた。骨盤膿瘍と、チャベス本人が「ほとんど野球のボール大」と表現したがん性腫瘍を除去するためだった。
■政治闘争のスローガンも楽観的に
数週間のうちにベネズエラ国民は大統領の急激な変わりようを目にした。公の場への登場は減り、演説は短くなり、夜型の生活を朝型に切り替え、食生活はコーヒーを減らし果物を増やした。何よりもこの数年間、掲げてきた「祖国に社会主義を、さもなくば死を」という政治闘争のスローガンが、もっと楽観的な「われわれは生きる、われわれは克服する」という文句に置き換わった。
しかし、これまでのところチャベス大統領の闘病生活の道のりは険しい。ユーモアを失うことはなかったが、2011年8月には化学療法の副作用で顔がはれ、頭部の毛が抜けた状態で公に姿を見せ、病を疑っていた国民たちも確信せざるを得なかった。
同年10月、チャベス氏は病は治ったと宣言したが、その半年後には健康問題が再浮上し、最初と同様の部位の腫瘍を除去する手術を受けるためにキューバへ戻らねばならなかった。ハバナでは5クールの放射線治療を受けねばならず、滞在を延長したが、この治療の間、アカウントを開設したツイッター(Twitter)上でチャベス氏は盛んに発信した。
■「左手と片足を縛られたボクサー」
再選によってさらなる任期6年を目指す大統領選の立候補届け出まで1週間と迫った2012年6月上旬には「がん克服宣言」をした。しかし展開されたのは、精力的なことで知られるチャベス氏にしては異例の控えめな選挙戦だった。さらに選挙は得票率55%で勝利し再選を果たしたが、選挙期間中に病気の影響を感じていたことを後になって明かし「放射線治療がなければやっていただろうことの10%」しかできなかったと述べた。また「実際のところ、私は左手と片足を縛られ、もう片方の足で飛び跳ねていたボクサーだった」とも語った。
キューバで新たな検診を受けた後の前月8日、チャベス大統領はがんの新たな再発と、再びキューバで手術を受けなければならないことを発表した。状況の深刻さを示すかのように、チャベス氏は自分が職務を果たせなくなった場合に備え、自分の後継者にニコラス・マドゥロ(Nicolas Maduro)副大統領を指名した。
直近の手術の後、ベネズエラ政府はチャベス大統領が「深刻な肺感染症を発症した」と発表し、大統領の容体が不安視されている。術後は公の場に登場していないだけでなく、写真も発表されていない。政府は8日、10日に予定されていた就任宣誓の延期を発表した。(c)AFP/Ramon Sahmkow