マンデラ氏釈放宣言から20周年、アパルトヘイト体制最後の大統領が演説
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【2月3日 AFP】南アフリカは2日、フレデリク・デクラーク(Frederik de Klerk)元大統領(73)がネルソン・マンデラ(Nelson Mandela)氏の釈放を宣言してから20周年を迎えた。ケープタウン(Cape Town)では記念式典が開かれ、デクラーク氏は、「アパルトヘイト(人種隔離政策)の撤廃により、悲劇的な結末が回避された」と演説した。
デクラーク氏は、もともとはアパルトヘイトを推進する与党国民党(National Party)の強硬派議員だった。だが1989年9月に大統領に就任すると、約5か月後の90年2月2日、アフリカ民族会議(ANC)など非合法団体の活動禁止措置の解除とANCの最高指導者マンデラ氏ら政治犯の釈放を発表する歴史的な国会演説を行った。デクラーク氏は演説で、民主的な新憲法の制定も求めた。
マンデラ氏は演説から9日後の11日、27年ぶりに釈放された。94年には全人種参加の選挙が実施され、マンデラ議長率いるANCが勝利を収めると、白人至上主義政権の最後の大統領となったデクラーク氏は歴史の表舞台から姿を消した。
デクラーク氏とマンデラ氏は93年、南アフリカのアパルトヘイト撤廃と民主化を実現したとして、ノーベル平和賞(Nobel Peace Prize)を共同受賞している。
■デクラーク氏に冷ややかな声も
デクラーク氏は式典で、「20周年が祝われるべき理由は、わたしや特定の個人、政党が果たした役割にではなく、(マンデラ氏釈放を契機としたアパルトヘイト撤廃が)悲劇的な結末を回避したという事実にある」と述べた。
さらに、「最も重要なことは、軍事的または革命的な勝利ではなく、すべての当事者が合意したということ。対立が続いていたら、南アフリカは荒廃していただろう」と続けた。
一方で、デクラーク氏の決断は、理想というよりは実利をとったと見る向きもある。当時の南アフリカは、政治的な対立が内戦の危機を招き、経済は国際社会の対南ア制裁措置により崩壊の一途をたどっていた。2日の南ア紙スター(Star)には、「デクラークについて記憶をとどめるに値する部分は、過去の過ちを正そうという姿勢ではなく、その実利主義にある」という内容の社説が掲載された。(c)AFP/Rodger Bosch
デクラーク氏は、もともとはアパルトヘイトを推進する与党国民党(National Party)の強硬派議員だった。だが1989年9月に大統領に就任すると、約5か月後の90年2月2日、アフリカ民族会議(ANC)など非合法団体の活動禁止措置の解除とANCの最高指導者マンデラ氏ら政治犯の釈放を発表する歴史的な国会演説を行った。デクラーク氏は演説で、民主的な新憲法の制定も求めた。
マンデラ氏は演説から9日後の11日、27年ぶりに釈放された。94年には全人種参加の選挙が実施され、マンデラ議長率いるANCが勝利を収めると、白人至上主義政権の最後の大統領となったデクラーク氏は歴史の表舞台から姿を消した。
デクラーク氏とマンデラ氏は93年、南アフリカのアパルトヘイト撤廃と民主化を実現したとして、ノーベル平和賞(Nobel Peace Prize)を共同受賞している。
■デクラーク氏に冷ややかな声も
デクラーク氏は式典で、「20周年が祝われるべき理由は、わたしや特定の個人、政党が果たした役割にではなく、(マンデラ氏釈放を契機としたアパルトヘイト撤廃が)悲劇的な結末を回避したという事実にある」と述べた。
さらに、「最も重要なことは、軍事的または革命的な勝利ではなく、すべての当事者が合意したということ。対立が続いていたら、南アフリカは荒廃していただろう」と続けた。
一方で、デクラーク氏の決断は、理想というよりは実利をとったと見る向きもある。当時の南アフリカは、政治的な対立が内戦の危機を招き、経済は国際社会の対南ア制裁措置により崩壊の一途をたどっていた。2日の南ア紙スター(Star)には、「デクラークについて記憶をとどめるに値する部分は、過去の過ちを正そうという姿勢ではなく、その実利主義にある」という内容の社説が掲載された。(c)AFP/Rodger Bosch