【7月27日 AFP】米ソ冷戦時代を象徴する最も激しい衝突のひとつが今から50年前に発生したが、それはアフリカでもアジアでもなく、モスクワ(Moscow)で開かれた「アメリカ博覧会(American National Exhibition)」のキッチン展示場で起こった。

 当時のニキータ・フルシチョフ(Nikita Khrushchev)ソ連共産党第1書記とリチャード・ニクソン(Richard Nixon)米副大統領による、いわゆる「キッチン討論」が行われたのは1959年7月24日だった。

 2人は洗濯機やガスレンジといった米国製の家電や日用品を前に、資本主義と共産主義というそれぞれの国の経済システムがもつ利点について、その場で即興のディベートを演じた。

■市民生活の豊かさ見せたアメリカ博

 多くのソ連人がこの博覧会で、資本主義を掲げる西側の生活を初めて垣間見た。当時を知る人びとは半世紀前を振り返り、物資が欠乏していたソ連の市民がこのとき米国の豊かさを知ったことが、共産主義の根幹に打撃を与えたと語る。

 博覧会招聘に関わった元ソ連文化省高官のエドゥアルド・イバニアン(Eduard Ivanian)氏は「かなりショックだった」という。「特別な技術的成果や、想像を絶するような物は展示されず、台所に洗濯機、ガスレンジなどアメリカ人にとって普通の物ばかりだった。われわれソ連の指導部は、それが博覧会でのプロパガンダ用に特別に作られた物だと(国民に)示す必要があった」

 1959年7月から8月にかけてソコルニキ(Sokolniki)公園で開催された「アメリカ博覧会」には延べ270万人が訪れ、シボレー(Chevrolet)ブランドの自動車やポラロイド(Polaroid)カメラを驚きの目で眺め、会期を通じて配られたペプシ(Pepsi)のコーラ300万カップを消費した。

 この展覧会は米ソ両大国が、それぞれの成果を競い合う見本市開催に合意して実現した。しかし、同年ニューヨーク(New York)で開かれたソ連側博覧会でのソ連製旅客機や人工衛星「スプートニク(Sputnik)」、集団農場などに関する展示は、米国人にあくびをもって迎えられた。

■国家目標優先・指令経済の欠陥を突く

 有名なキッチン討論は、そのアメリカ博の初日にテレビ・スタジオで始まり、報道陣や側近を引き連れたまま、2人が米国のモデルハウス展示場に移動しても続いた。

 後に大統領になるニクソンは案内役としてできる限り外交的に振る舞う一方、フルシチョフは嘲るそぶりで、ソ連製の家庭用品も劣らず優秀だと主張した。「これはカリフォルニア(California)の家にあるようなキッチンです」とニクソンが案内すると、フルシチョフは「わが国にもこんなものはあります」と応じたという。しかし実際には当時、ソ連の大半の家庭には冷蔵庫さえなかった。

 キッチン討論は、共産主義体制を弱体化させ、91年の崩壊へと至った旧ソ連の指令経済の欠陥点を突いていた。共産主義体制はロケットや原爆を開発することはできたが、市民が欲しがる消費財の多くを提供することができなかった。

 崩壊までの数十年間、ソ連では食糧不足や車などの製品不足が何度も浮上した。人びとは長い列を作ったが、そうして入手したものの品質も西側製品に比べて劣っていた。

 それでも、監視体制によってロシア人たちが西側の生活を知らない間は、旧ソ連の体制も安泰だった。しかし、59年のアメリカ博が鉄のカーテンに亀裂を入れ、「労働者の天国」というソ連のスローガンに疑念を生じさせた。

 在モスクワ米国大使公邸で最近開かれた「アメリカ博50周年」の会議で、当時米大使館の文化広報を担当していたHans Tuch元外交官は、見学者から米国の生活について「何千もの」質問がガイドに浴びせられたと述べた。Tuch氏自身がいくら給料をもらっているのかといったことから、展示されていた車の値段は何時間分の労働に値するのか、末には「あなたがロシア語を話せるのはスパイだからか」という質問までされたという。

 書き残された来展者の感想にも、米国の消費財、特に車への憧れが表れていたという。

 しかし、当時の共産党の機関紙「プラウダ(Pravda)」は博覧会開幕から数日後、その展示を酷評した。「テクノロジーはどこにあるのか。米国科学界の成果はどこにあるのか。観客たちはガイドにそうした質問をぶつけた・・・米国の技術的成果を知りたいという渇きは、見学者に振舞われた『ペプシ・コーラ(Pepsi-Cola)』という清涼飲料水で癒されることはない」(c)AFP/Alexander Osipovich