ケニアの元マウマウ団戦士、植民地時代の「拷問」で英政府を提訴
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【6月24日 AFP】5人の高齢のケニア人たちが23日、半世紀前の英国植民地時代に拷問を受け違法に投獄されたとして、英国政府を相手取り損害賠償請求を起こした。
裁判を起こしたのは、英国植民地時代に独立闘争を担ったマウマウ団(Mau Mau)の元戦士(男性3人、女性2人)。1950年代のいわゆるマウマウ戦争では、マウマウ団と英国植民地軍が激しく衝突し、同団の戦士ら推定16万人が拘束され、強制労働キャンプに収容された。
ロンドン(London)の高等法院(High Court of Justice)に損害賠償請求を起こすため、生まれて初めてケニアを離れた5人は、英国植民地政府に貼られた「テロリスト」のレッテルを取り払い、「植民地主義の足かせから祖国を解放した自由戦士」として認知されることも希望している。
弁護団の1人、マーチン・デイ(Martyn Day)氏は、ロンドンで会見し、「多くのマウマウ戦士たちが拷問を受けて殺された。この裁判の目的は、それらすべての出来事を英国の裁判所であからさまにし、50年代に行ったことは間違っていたと(英国政府に)認めさせることにある」と話した。
原告の1人、元女性戦士のJane Muthoni MaraさんとSusan Ngondiさんは、性的暴行を受けたうえ身体の一部を切断されたと話す。
81歳の元戦士、Paulo NziliさんはAFPに対し、1954年に植民地政府軍に拘束されたあと、ペンチで去勢され、殴る蹴るの暴行を受けたと語った。こうした拷問で、多くの戦士たちが命を落としたという。「裁判に勝てたらうれしい。でも、自分にとって最も重要なことは、自由戦士、解放者として認識してもらうことです」
英国植民地政府の役人だったジョン・ノッティンガム(John Nottingham)氏も、今回の裁判に力を貸している。拷問命令は拒否していたというノッティンガム氏は、植民地政府の文書を丹念に調べた。当時、英国サイドのプロパガンダや都合のいい解釈が流布しており、実際に起きていることを包み隠していたという。
同氏によると、ケニアの独立が近づくにつれ、英国軍はマウマウ戦士たちの扱いに関するファイルを組織的に焼却した。重要なファイルの多くは、秘密法のもと、前年になってようやく公開されたという。
前出のデイ氏は、「訴訟が遅れた理由の1つは、英国の裁判所に対し、一切の決定はナイロビ(Nairobi)の植民地政府ではなくロンドンの英国政府が行っていたという十分な証拠を集めるためだった」と説明した。
一方英国英府は、拷問が行われたとされる時期からはかなりの年月がたっていることもあり、裁判で争う用意があるとの見解を示している。(c)AFP/Guy Jackson
裁判を起こしたのは、英国植民地時代に独立闘争を担ったマウマウ団(Mau Mau)の元戦士(男性3人、女性2人)。1950年代のいわゆるマウマウ戦争では、マウマウ団と英国植民地軍が激しく衝突し、同団の戦士ら推定16万人が拘束され、強制労働キャンプに収容された。
ロンドン(London)の高等法院(High Court of Justice)に損害賠償請求を起こすため、生まれて初めてケニアを離れた5人は、英国植民地政府に貼られた「テロリスト」のレッテルを取り払い、「植民地主義の足かせから祖国を解放した自由戦士」として認知されることも希望している。
弁護団の1人、マーチン・デイ(Martyn Day)氏は、ロンドンで会見し、「多くのマウマウ戦士たちが拷問を受けて殺された。この裁判の目的は、それらすべての出来事を英国の裁判所であからさまにし、50年代に行ったことは間違っていたと(英国政府に)認めさせることにある」と話した。
原告の1人、元女性戦士のJane Muthoni MaraさんとSusan Ngondiさんは、性的暴行を受けたうえ身体の一部を切断されたと話す。
81歳の元戦士、Paulo NziliさんはAFPに対し、1954年に植民地政府軍に拘束されたあと、ペンチで去勢され、殴る蹴るの暴行を受けたと語った。こうした拷問で、多くの戦士たちが命を落としたという。「裁判に勝てたらうれしい。でも、自分にとって最も重要なことは、自由戦士、解放者として認識してもらうことです」
英国植民地政府の役人だったジョン・ノッティンガム(John Nottingham)氏も、今回の裁判に力を貸している。拷問命令は拒否していたというノッティンガム氏は、植民地政府の文書を丹念に調べた。当時、英国サイドのプロパガンダや都合のいい解釈が流布しており、実際に起きていることを包み隠していたという。
同氏によると、ケニアの独立が近づくにつれ、英国軍はマウマウ戦士たちの扱いに関するファイルを組織的に焼却した。重要なファイルの多くは、秘密法のもと、前年になってようやく公開されたという。
前出のデイ氏は、「訴訟が遅れた理由の1つは、英国の裁判所に対し、一切の決定はナイロビ(Nairobi)の植民地政府ではなくロンドンの英国政府が行っていたという十分な証拠を集めるためだった」と説明した。
一方英国英府は、拷問が行われたとされる時期からはかなりの年月がたっていることもあり、裁判で争う用意があるとの見解を示している。(c)AFP/Guy Jackson