【10月11日 AFP】11日に交通事故で死去したオーストリア・ケルンテン(Carinthia)州知事で、極右・オーストリア未来同盟(Alliance for Austria's FutureBZOe)党首のイエルク・ハイダー(Joerg Haider)氏(享年58)は、20年前から同国極右派の顔だった。

 ハイダー氏の提唱する移民受け入れ制限や反欧州連合(EU)政策は、一部からは支持を得たものの、多くの人からは人種差別主義者で日和見的な政治家と見られた。

 同氏は、移民に関する強硬路線で物議を醸すことが多かった。「真のオーストリア人」の権利をくり返し主唱し、オーストリア社会のイスラム化に警鐘を鳴らした。また、政界に返り咲く能力にも長けていた。

 1950年1月26日に同国中部のBad Goisenで誕生したハイダー氏は、20代前半に自由党(Austrian Freedom PartyFPOe)の青年部に所属した。ウィーン大学(Vienna University)法学部を卒業後、ケルンテンに移住し、間もなく地方政治に関わるようになった。すぐに頭角を現し、1986年には党首にまで上り詰めた。

 元ナチ党党員が結成した自由党は当時、選挙での得票率がわずか4%だった。ところが、13年後にはハイダー氏の指導の元で過去最高の26.9%の得票率を記録した。

 1989年、少数派のスロベニア系住民が多いケルンテン州知事に当選したが、1991年にナチス政権下のドイツ「第三帝国」の雇用政策を称賛したことから、任期途中で辞職を余儀なくされた。

 辞職後も物議を醸し続けたハイダー氏はメディアに注目され続けた。1995年、ハイダー氏が議会でナチスの強制収容所は「矯正施設だったに過ぎない」と主張すると、対立する政治家は同氏を批判した。

 1999年にケルンテン州知事に再選され、2000年には自由党はウォルフガング・シュッセル(Wolfgang Schuessel)首相率いる国民党(People's PartyOVP)と連立政権を組んだ。この結果、EUはオーストリアに政治的な制裁を加え、イスラエルは一時的に外交関係を停止した。国際社会からの強い圧力を受けてハイダー氏は同年、党首を辞任。5年後の2005年に、新党「オーストリア未来同盟」を結成した。

 前月実施された総選挙でも、同氏は新党の躍進に貢献。自分の政策立案の経験を強調し、政府が腐敗しているとして激しく攻撃した。この選挙戦略が奏功し、未来同盟の得票率は前回の総選挙時の3倍の11%に達した。しかし、選挙で第1党となった社会民主党は未来同盟を連立内閣に参加させなかった。

 ハイダー氏は、妻と子ども2人を残してこの世を去った。(c)AFP