米研究機関、外交文書を公開・米とスハルト政権の関係示す
このニュースをシェア
【1月30日 AFP】ジョージワシントン大学(George Washington University)の国家安全保障アーカイブ(National Security Archive、NSA)は情報公開法に基づき入手したインドネシアの故スハルト(Suharto)元大統領に関する機密文書を28日公開した。
公開された文書は、米当局が32年にわたるスハルト独裁体制の間、同氏に説明責任を果たすよう影響力を行使する努力をしなかったことを如実に示している。NSAのブラッド・シンプソン(Brad Simpson)氏は次のように語った。「1966年から1998年までのスハルト体制と米政府のつながりをまとめた数万ページにおよぶ文書から明確にわかることは何か。それは当時の米国の歴代大統領が、インドネシアの人権や民主主義のために最善の手段を講じたことはなかったということだ」
■アジア経済危機では断固介入
NSAでインドネシアおよび東ティモールの文書分析を統括するシンプソン氏は、米政府が「断固としてインドネシア政府に介入した」のは1998年の一度きりだったと指摘する。アジア経済危機がインドネシアにも波及し、各地で前例のない大規模デモが発生したときだ。公開された文書によれば、このとき当時のビル・クリントン(Bill Clinton)大統領はスハルト元大統領に5、6回にわたり電話をかけ国際通貨基金(IMF)が求める経済構造改革を断行するよう圧力をかけた。スハルト氏は、米政府とIMFの要請に応じた。
だがシンプソン氏は、当時の米政府の動きをこう分析する。「米政府が米国の国益になると判断したときに、どのような圧力をかけるかということを示していると思うが、実際にはIMFなどのために動いたに過ぎず、決してインドネシアにおける人権や民主主義を考えての行動ではなかった」
公開された機密文書には、スハルト元大統領とリチャード・ニクソン(Richard Nixon)、ジェラルド・フォード(Gerald Ford)、ロナルド・レーガン(Ronald Reagan)歴代大統領、ならびにヘンリー・キッシンジャー(Henry Kissinger)元国務長官との会談の内容が記されている。さらに初期のスハルト独裁政権に対する米政府の見解も明らかにされている。たとえば、1969年のパプア州併合、1975年の東ティモール侵攻、1983-84年にかけて起きた「不可解な」大量殺人事件などに対する米政府の態度を知ることができる。
■国際情勢のまえにかすむ国内問題
文書からは、米国がスハルト政権時代の大部分において、強固な同盟国として援助、武器供与、外交支援などをつづけ、共産主義の拡大を防ぐ重要な存在としてスハルト氏を見なしていたことが分かる。
スハルト氏が大統領として米国を初めて公式訪問したのは1970年5月のこと。国内で腐敗がはびこり、大規模取り締まりが行われている中での訪問だったにもかかわらず、当時のニクソン大統領は会談で、「世界最大の民主主義国家のひとつ」を統治する人物とスハルト氏を持ち上げた。当時のキッシンジャー大統領補佐官はニクソン大統領に対し、「米国とインドネシアの間には何ら問題はない。非常に良好な関係にある」と書面で伝えている。
その5年後、スハルト氏は当時のフォード大統領と会談。ポルトガルが植民地だった東ティモールを解放したことに触れ、「東ティモールをインドネシアに統合する以外に道はない」と述べている。公開された文書によれば、フォード元大統領はこの発言に反応しなかった。1982年10月には当時のレーガン大統領と会談しているが、その報告書にインドネシアの人権問題について触れたとの記録はない。
さらに2年後、当時のジョージ・ブッシュ(George Bush)副大統領がインドネシアの首都ジャカルタ(Jakarta)を訪問。東ティモールで数百人の民間人が殺害される事件が、インドネシア国内で「不可解な」大量殺人事件がそれぞれ起きて間もない時期だったにもかかわらず、会談では主に米中・米ソ関係について話し合われた。
公開された文書によればジャカルタの在インドネシア米国大使館は当時、インドネシアで約4000人が殺害されたと推定している。歴史学者らは、1965-66年にかけて行われた共産主義勢力弾圧を含め、スハルト独裁政権下で少なくとも50万人が殺害されたとしている。
■「経済的発展もたらした歴史的人物」
27日のスハルト元大統領死去に際し在インドネシア米国大使館は声明を発表。「著しい経済的発展をもたらした歴史的人物」としてスハルト氏をたたえた。この声明はさらに「スハルト氏の遺産をめぐり若干の議論があるかもしれないが、同氏は祖国と東南アジアに永遠に消えない足跡を残したのである」とつづいている。(c)AFP/P. Parameswara
公開された文書は、米当局が32年にわたるスハルト独裁体制の間、同氏に説明責任を果たすよう影響力を行使する努力をしなかったことを如実に示している。NSAのブラッド・シンプソン(Brad Simpson)氏は次のように語った。「1966年から1998年までのスハルト体制と米政府のつながりをまとめた数万ページにおよぶ文書から明確にわかることは何か。それは当時の米国の歴代大統領が、インドネシアの人権や民主主義のために最善の手段を講じたことはなかったということだ」
■アジア経済危機では断固介入
NSAでインドネシアおよび東ティモールの文書分析を統括するシンプソン氏は、米政府が「断固としてインドネシア政府に介入した」のは1998年の一度きりだったと指摘する。アジア経済危機がインドネシアにも波及し、各地で前例のない大規模デモが発生したときだ。公開された文書によれば、このとき当時のビル・クリントン(Bill Clinton)大統領はスハルト元大統領に5、6回にわたり電話をかけ国際通貨基金(IMF)が求める経済構造改革を断行するよう圧力をかけた。スハルト氏は、米政府とIMFの要請に応じた。
だがシンプソン氏は、当時の米政府の動きをこう分析する。「米政府が米国の国益になると判断したときに、どのような圧力をかけるかということを示していると思うが、実際にはIMFなどのために動いたに過ぎず、決してインドネシアにおける人権や民主主義を考えての行動ではなかった」
公開された機密文書には、スハルト元大統領とリチャード・ニクソン(Richard Nixon)、ジェラルド・フォード(Gerald Ford)、ロナルド・レーガン(Ronald Reagan)歴代大統領、ならびにヘンリー・キッシンジャー(Henry Kissinger)元国務長官との会談の内容が記されている。さらに初期のスハルト独裁政権に対する米政府の見解も明らかにされている。たとえば、1969年のパプア州併合、1975年の東ティモール侵攻、1983-84年にかけて起きた「不可解な」大量殺人事件などに対する米政府の態度を知ることができる。
■国際情勢のまえにかすむ国内問題
文書からは、米国がスハルト政権時代の大部分において、強固な同盟国として援助、武器供与、外交支援などをつづけ、共産主義の拡大を防ぐ重要な存在としてスハルト氏を見なしていたことが分かる。
スハルト氏が大統領として米国を初めて公式訪問したのは1970年5月のこと。国内で腐敗がはびこり、大規模取り締まりが行われている中での訪問だったにもかかわらず、当時のニクソン大統領は会談で、「世界最大の民主主義国家のひとつ」を統治する人物とスハルト氏を持ち上げた。当時のキッシンジャー大統領補佐官はニクソン大統領に対し、「米国とインドネシアの間には何ら問題はない。非常に良好な関係にある」と書面で伝えている。
その5年後、スハルト氏は当時のフォード大統領と会談。ポルトガルが植民地だった東ティモールを解放したことに触れ、「東ティモールをインドネシアに統合する以外に道はない」と述べている。公開された文書によれば、フォード元大統領はこの発言に反応しなかった。1982年10月には当時のレーガン大統領と会談しているが、その報告書にインドネシアの人権問題について触れたとの記録はない。
さらに2年後、当時のジョージ・ブッシュ(George Bush)副大統領がインドネシアの首都ジャカルタ(Jakarta)を訪問。東ティモールで数百人の民間人が殺害される事件が、インドネシア国内で「不可解な」大量殺人事件がそれぞれ起きて間もない時期だったにもかかわらず、会談では主に米中・米ソ関係について話し合われた。
公開された文書によればジャカルタの在インドネシア米国大使館は当時、インドネシアで約4000人が殺害されたと推定している。歴史学者らは、1965-66年にかけて行われた共産主義勢力弾圧を含め、スハルト独裁政権下で少なくとも50万人が殺害されたとしている。
■「経済的発展もたらした歴史的人物」
27日のスハルト元大統領死去に際し在インドネシア米国大使館は声明を発表。「著しい経済的発展をもたらした歴史的人物」としてスハルト氏をたたえた。この声明はさらに「スハルト氏の遺産をめぐり若干の議論があるかもしれないが、同氏は祖国と東南アジアに永遠に消えない足跡を残したのである」とつづいている。(c)AFP/P. Parameswara