スハルト元大統領死去、1つの時代の終わり
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【1月27日 AFP】アジアの「独裁者」がまた1人消えた。27日、多臓器不全のためジャカルタ(Jakarta)の病院で死去したインドネシアのスハルト(Suharto)元大統領は20世紀後半の長期間、同国に独裁体制を敷き、主に西側寄りの政策を押し進めた。
1996年の実権掌握から1998年に辞任を余儀なくされるまで、スハルト氏は抑圧的な社会統制を用いながら、市場主導型の経済成長モデルに基づいた国家運営を行った。
■「近代化」の中、アジア各地で共通した独裁手法
オーストラリア国立大学(Australian National University)の研究者Greg Fealy氏は、「国家の秩序を保ち近代、つまり工業化時代を国家にもたらすために必要なのは強い支配者だ」という概念に正当化されながら、アジア各地に共通で存在した手法が独裁体制だったと指摘する。共産主義の脅威という「亡霊」に絶えずつきまとわれた冷戦時代の政治情勢がまた、市民の権利をいかに犠牲にしようとも「強い国家、強い指導者を志向した」ともいう。
スハルト政権と同時代を共有したアジアの独裁者の中でも、フィリピンの故フェルディナンド・マルコス(Ferdinand Marcos)元大統領やその側近はあり余るほどの資産を蓄積したが、一方で韓国の故朴正煕(パク・チョンヒ、Park Chung-hee)大統領は国の繁栄を目指しながら個人としてはより質素で、それぞれタイプは異なった。
一方、シンガポールのリー・クアンユー(Lee Kuan Yew)現顧問相(元首相)やマレーシアのマハティール・モハマド(Mahathir Mohamad)元首相も間違いなく独裁主義者だったが、孤立政策で西側の非難を集めたミャンマーのネ・ウィン(Ne Win)将軍のような「鉄の意志を持つ」専制支配とは遠かった。
こうした独裁者たちが表向きにも「強さ」のイメージを固持するかどうかはさまざまだ。
1974年、自身の暗殺を狙った狙撃で演説を中断された当時の朴正煕韓国大統領は、この襲撃で夫人の命を奪われながら、事件後に演壇へ戻り演説を最後まで終了させた。
対照的にリー・クァンユー氏は、1965年にマレーシアからの分裂独立を余儀なくされた際、涙の記者会見を行い、教師然ともいえるほど国民生活を微細に管理統制した権威主義とは対極を見せた瞬間だった。
現在も親しく交流しているアジアの元独裁者たちもおり、共に80代に達したマハティール氏とリー・クアンユー氏は連れ立って、インドネシアの首都ジャカルタ(Jakarta)へ病床のスハルト氏を見舞った。
■エリートによる抑圧体制と西側の共依存関係
アジアの独裁者たちに共通する認識として、西欧型の自由民主主義は自国ではうまく機能しないばかりか、危険でさえあるという確信がある、とオーストラリア人のインドネシア研究者、Harold Crouch氏は分析する。そうした主張の中心は「アジア的価値観」であり、脆弱な新興地域という特殊な状況で必要とされるのは「国を動かすエリート」だという論旨だ。
こうした自由民主主義とは反する傾向にもかかわらず、西側はアジアの独裁者たちに対する支援を止めることはなかったどころか、彼らの掲げる反共産主義や外資受け入れ体制と歩調を共にし、西側と各独裁政権の間にはさまざまなレベルで緊密な関係が築かれていった。
クローチ氏は500万人もの殺害に及ぶといわれるインドネシア共産党に対する弾圧に触れ、「スハルト氏は政権を掌握する過程で多くの共産主義者を殺りくしたから、アメリカ人は確かにスハルト氏を歓迎した」という。
■汚職を「制度化」した裏政治手腕
マハティール氏らほかのアジアの独裁者たちが厳格な側面を強調する中、スハルト氏のあり方は個性的で、表向きには残虐性を潜め人受けのよい控えめなあり方に終始したと、パラマディナ大学(Paramadina University)で教鞭をとるBima Sugiarto氏はいう。
「彼は『微笑む将軍』として知られた。非常に優しく上品だった一方、裏側で政治シナリオのすべてをコントロールする手法は卓越していた」。
マルコス一族のように汚職で名前を汚した独裁者は多いが、政権期間を通じて汚職を「制度化」したスハルト氏の手法に匹敵するものはない、とSugiarto氏は指摘した。(c)AFP/Aubrey Belford
1996年の実権掌握から1998年に辞任を余儀なくされるまで、スハルト氏は抑圧的な社会統制を用いながら、市場主導型の経済成長モデルに基づいた国家運営を行った。
■「近代化」の中、アジア各地で共通した独裁手法
オーストラリア国立大学(Australian National University)の研究者Greg Fealy氏は、「国家の秩序を保ち近代、つまり工業化時代を国家にもたらすために必要なのは強い支配者だ」という概念に正当化されながら、アジア各地に共通で存在した手法が独裁体制だったと指摘する。共産主義の脅威という「亡霊」に絶えずつきまとわれた冷戦時代の政治情勢がまた、市民の権利をいかに犠牲にしようとも「強い国家、強い指導者を志向した」ともいう。
スハルト政権と同時代を共有したアジアの独裁者の中でも、フィリピンの故フェルディナンド・マルコス(Ferdinand Marcos)元大統領やその側近はあり余るほどの資産を蓄積したが、一方で韓国の故朴正煕(パク・チョンヒ、Park Chung-hee)大統領は国の繁栄を目指しながら個人としてはより質素で、それぞれタイプは異なった。
一方、シンガポールのリー・クアンユー(Lee Kuan Yew)現顧問相(元首相)やマレーシアのマハティール・モハマド(Mahathir Mohamad)元首相も間違いなく独裁主義者だったが、孤立政策で西側の非難を集めたミャンマーのネ・ウィン(Ne Win)将軍のような「鉄の意志を持つ」専制支配とは遠かった。
こうした独裁者たちが表向きにも「強さ」のイメージを固持するかどうかはさまざまだ。
1974年、自身の暗殺を狙った狙撃で演説を中断された当時の朴正煕韓国大統領は、この襲撃で夫人の命を奪われながら、事件後に演壇へ戻り演説を最後まで終了させた。
対照的にリー・クァンユー氏は、1965年にマレーシアからの分裂独立を余儀なくされた際、涙の記者会見を行い、教師然ともいえるほど国民生活を微細に管理統制した権威主義とは対極を見せた瞬間だった。
現在も親しく交流しているアジアの元独裁者たちもおり、共に80代に達したマハティール氏とリー・クアンユー氏は連れ立って、インドネシアの首都ジャカルタ(Jakarta)へ病床のスハルト氏を見舞った。
■エリートによる抑圧体制と西側の共依存関係
アジアの独裁者たちに共通する認識として、西欧型の自由民主主義は自国ではうまく機能しないばかりか、危険でさえあるという確信がある、とオーストラリア人のインドネシア研究者、Harold Crouch氏は分析する。そうした主張の中心は「アジア的価値観」であり、脆弱な新興地域という特殊な状況で必要とされるのは「国を動かすエリート」だという論旨だ。
こうした自由民主主義とは反する傾向にもかかわらず、西側はアジアの独裁者たちに対する支援を止めることはなかったどころか、彼らの掲げる反共産主義や外資受け入れ体制と歩調を共にし、西側と各独裁政権の間にはさまざまなレベルで緊密な関係が築かれていった。
クローチ氏は500万人もの殺害に及ぶといわれるインドネシア共産党に対する弾圧に触れ、「スハルト氏は政権を掌握する過程で多くの共産主義者を殺りくしたから、アメリカ人は確かにスハルト氏を歓迎した」という。
■汚職を「制度化」した裏政治手腕
マハティール氏らほかのアジアの独裁者たちが厳格な側面を強調する中、スハルト氏のあり方は個性的で、表向きには残虐性を潜め人受けのよい控えめなあり方に終始したと、パラマディナ大学(Paramadina University)で教鞭をとるBima Sugiarto氏はいう。
「彼は『微笑む将軍』として知られた。非常に優しく上品だった一方、裏側で政治シナリオのすべてをコントロールする手法は卓越していた」。
マルコス一族のように汚職で名前を汚した独裁者は多いが、政権期間を通じて汚職を「制度化」したスハルト氏の手法に匹敵するものはない、とSugiarto氏は指摘した。(c)AFP/Aubrey Belford