パキスタン独立後60年間で、文民統制はわずか25年
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【11月28日 AFP】パキスタンのペルベズ・ムシャラフ(Pervez Musharraf)大統領が28日、大統領職と兼務していた陸軍参謀長を辞任した。これにより、60年前のパキスタン独立以来4度目だった軍政に終止符が打たれた。
1999年の無血クーデターでナワズ・シャリフ(Nawaz Sharif)元首相を倒して政権の座に就いたムシャラフ大統領は、11月3日に発令した非常事態宣言に対し内外の圧力が高まったことで、ようやく軍籍離脱に合意した。
■英から独立10年後に初の軍事政権
パキスタンでは、1947年に英国から独立して約10年後に最初の軍事政権が誕生しており、文民政権による統治は史上わずか25年しかない。
最初の軍政は1958年に成立したアユブ・カーン(Ayub Khan)政権で、隣国インドのとの緊張が高まり、経済政策に行き詰まる中、イスカンダル・ミルザ(Iskandar Mirza)大統領(当時)が憲法を廃止し、アユブ・カーン将軍に政権を明け渡す形で誕生した。同将軍はその後、大統領に就任し、首相職を廃止した。1962年に戒厳令を解除したが、民衆の大規模な抗議運動によって1969年に辞任を余儀なくされた。
同将軍の後を継いだのは、陸軍総司令官だったヤヒア・カーン(Yahya Khan)将軍で、大統領に就任すると再び戒厳令を発令した。しかし、パキスタンからのバングラデシュ独立を招いた第3次印パ戦争を受け、1971年後半に辞任に追い込まれた。
■ブット氏父の文民政権、6年間で終了
同71年、現在パキスタンの野党指導者として注目を集めているベナジル・ブット(Benazir Bhutto)元首相の父親であるズルフィカル・アリ・ブット(Zulfikar Ali Bhutto)パキスタン人民党(Pakistan People’s Party、PPP)総裁が大統領に就任、1973年に首相にも就任した。この文民政権は6年間続くことになった。
1977年7月、国民議会選挙の結果を受けた政治的混乱の中、ジアウル・ハク(Zia-ul Haq)陸軍参謀長が無血クーデターによって政権を掌握、またも戒厳令が発令された。ハク大統領は2年後の1979年、ズルフィカル・アリ・ブット氏を処刑した。
ハク政権は戒厳令の下、イスラム法を採用したり、海外から資金援助を受けていたアフガニスタンでの旧ソ連に対するジハード(聖戦)を指導した。戒厳令は1985年に解除された。
1988年8月、ハク大統領の搭乗していた輸送機が原因不明の墜落事故を起こし、大統領は死亡。同年、ベナジル・ブット氏がイスラム国家として初の女性首相に就任した。しかし、ブット首相はわずか2年後の90年にイスハク・カーン(Ghulam Ishaq Khan)大統領によって解任された。
■90年代以後はシャリフ、ブット、ムシャラフの三つどもえ
その後、1991-93年までシャリフ氏が政権に就き、1993-96年には第2次ブット政権が支配した。1996年、当時のファルーク・レガリ(Farooq Leghari)大統領が汚職容疑でブット首相を解任、97年に再びシャリフ氏が政権に復帰した。
1999年10月、陸軍参謀長だったムシャラフ現大統領が、無血クーデターで政権を奪取、憲法を停止した。シャリフ氏はムシャラフ氏を陸軍参謀長から解任したが、逆にムシャラフ氏の搭乗機着陸を妨害しようとしたとしてハイジャックの罪と汚職の罪に問われた。シャリフ氏によるムシャラフ氏の陸軍参謀長解任が、クーデターの引き金になったといわれる。
ムシャラフ大統領は2002年に憲法を回復したが、2007年11月3日に非常事態宣言を発令、再び憲法を停止するに至り、「第2のクーデター」だという批判が巻き起こった。
ムシャラフ大統領による陸軍参謀長と大統領の兼任期間は、ハク元大統領に次ぐ史上2番目の長さだった。
報道によると、ムシャラフ大統領は参謀長辞任後も、陸軍特殊部隊による身辺警備の提供を受けることになっている。(c)AFP/Masroor Gilani
1999年の無血クーデターでナワズ・シャリフ(Nawaz Sharif)元首相を倒して政権の座に就いたムシャラフ大統領は、11月3日に発令した非常事態宣言に対し内外の圧力が高まったことで、ようやく軍籍離脱に合意した。
■英から独立10年後に初の軍事政権
パキスタンでは、1947年に英国から独立して約10年後に最初の軍事政権が誕生しており、文民政権による統治は史上わずか25年しかない。
最初の軍政は1958年に成立したアユブ・カーン(Ayub Khan)政権で、隣国インドのとの緊張が高まり、経済政策に行き詰まる中、イスカンダル・ミルザ(Iskandar Mirza)大統領(当時)が憲法を廃止し、アユブ・カーン将軍に政権を明け渡す形で誕生した。同将軍はその後、大統領に就任し、首相職を廃止した。1962年に戒厳令を解除したが、民衆の大規模な抗議運動によって1969年に辞任を余儀なくされた。
同将軍の後を継いだのは、陸軍総司令官だったヤヒア・カーン(Yahya Khan)将軍で、大統領に就任すると再び戒厳令を発令した。しかし、パキスタンからのバングラデシュ独立を招いた第3次印パ戦争を受け、1971年後半に辞任に追い込まれた。
■ブット氏父の文民政権、6年間で終了
同71年、現在パキスタンの野党指導者として注目を集めているベナジル・ブット(Benazir Bhutto)元首相の父親であるズルフィカル・アリ・ブット(Zulfikar Ali Bhutto)パキスタン人民党(Pakistan People’s Party、PPP)総裁が大統領に就任、1973年に首相にも就任した。この文民政権は6年間続くことになった。
1977年7月、国民議会選挙の結果を受けた政治的混乱の中、ジアウル・ハク(Zia-ul Haq)陸軍参謀長が無血クーデターによって政権を掌握、またも戒厳令が発令された。ハク大統領は2年後の1979年、ズルフィカル・アリ・ブット氏を処刑した。
ハク政権は戒厳令の下、イスラム法を採用したり、海外から資金援助を受けていたアフガニスタンでの旧ソ連に対するジハード(聖戦)を指導した。戒厳令は1985年に解除された。
1988年8月、ハク大統領の搭乗していた輸送機が原因不明の墜落事故を起こし、大統領は死亡。同年、ベナジル・ブット氏がイスラム国家として初の女性首相に就任した。しかし、ブット首相はわずか2年後の90年にイスハク・カーン(Ghulam Ishaq Khan)大統領によって解任された。
■90年代以後はシャリフ、ブット、ムシャラフの三つどもえ
その後、1991-93年までシャリフ氏が政権に就き、1993-96年には第2次ブット政権が支配した。1996年、当時のファルーク・レガリ(Farooq Leghari)大統領が汚職容疑でブット首相を解任、97年に再びシャリフ氏が政権に復帰した。
1999年10月、陸軍参謀長だったムシャラフ現大統領が、無血クーデターで政権を奪取、憲法を停止した。シャリフ氏はムシャラフ氏を陸軍参謀長から解任したが、逆にムシャラフ氏の搭乗機着陸を妨害しようとしたとしてハイジャックの罪と汚職の罪に問われた。シャリフ氏によるムシャラフ氏の陸軍参謀長解任が、クーデターの引き金になったといわれる。
ムシャラフ大統領は2002年に憲法を回復したが、2007年11月3日に非常事態宣言を発令、再び憲法を停止するに至り、「第2のクーデター」だという批判が巻き起こった。
ムシャラフ大統領による陸軍参謀長と大統領の兼任期間は、ハク元大統領に次ぐ史上2番目の長さだった。
報道によると、ムシャラフ大統領は参謀長辞任後も、陸軍特殊部隊による身辺警備の提供を受けることになっている。(c)AFP/Masroor Gilani