北朝鮮の収容所で22年間を過ごした男性、自伝を出版
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【10月31日 AFP】(一部修正)北朝鮮の収容所で生まれ、鉄条網の中で22年間を過ごし、その後、韓国に脱出した男性が29日、首都ソウル(Seoul)で記者会見を開き、収容所生活をつづった自伝『Escape to the Outside World(外界への脱出)』について語った。
男性の名前は申東革(シン・ドンヒョク、Shin Dong-Hyuk)さん(24)。自伝執筆の理由について、「収容所に今もいる子どもたちのために」書いたと胸の内を明かした。
平安南道(South Pyongan Province)の第14号収容所で、申さんは14歳のときに母親と兄弟を目の前で『処刑』されたという。そこでの生活は、過酷な労働、殴打、拷問の繰り返しだったようだ。
それが自分に課せられた運命なのだと諦めていた申さんだが、収容所の仲間から外の世界について聞かされて目が覚めたという。
記者会見に同席し、通訳も務めたDatabase Centre for North Korean Human Rights(北朝鮮人権問題データベースセンター)のKim Sang-Hunセンター長は、「北朝鮮による『人道に対する罪』から目をそらそうとする人びと」は申さんの証言を聞いて後ろめたく感じるはずだと語った。
■収容所の過酷な日々
申さんの父親は1965年、兄弟2人が韓国に脱北したことを理由に逮捕された。その後、模範囚であることを認められて女性収容者と結婚したが、結婚からわずか5日で離別させられ、それ以降はほとんど顔を合わせることすらなかった。
申さんは12歳まで母親と共に収容所生活を過ごしたが、母親は午前5時から午後9時半まで労働させられた上、その後、1日のノルマを達成しなかった収容者について、相互に批判や拷問を行う集会にも毎日出席させられていた。
申さんの自伝には「朝から晩まで働かされていた母に、わたしに愛情をそそぐ時間などなかった」と記されている。
5年間の初等教育では、読み書き、足し算、引き算しか学ばなかった。小麦を5粒盗んだ少女が殴打され、死亡することもあったという。
13歳のときには電力施設の建設現場での労働に出され、そこで多くの子どもたちが事故死するのを目の当たりにした。
1996年のある朝、地下拷問室に連行された申さんは、母親と兄弟が脱出を図って捕まったことを知らされた。家族そろって何かを企んでいたと疑われ、自白を強いられて、気絶するまで火の上につるされた。
地下房で7か月間過ごした後、母親と兄弟が「国民の敵」として処刑される現場に、父親と共に立ち会わされた。母親は絞首刑、兄弟は火刑だった。
その後は縫製工場での労働に就いたが、ミシンを床に落とした罰として中指の一部を切断された。
つらい少年時代について、申さんは当時、不満は持っていなかったという。むしろ、脱出を試みた母親と兄弟に対し怒りを覚えたそうだ。そのせいで、自分や父までが罰を与えられたためである。
「模範囚として結婚を認められること、作業チームのリーダーになること、当時はそれ以外に望みなどなかった」
■脱出
申さんの人生が一変したのは2004年。Parkと名乗る青年と友達になり、外の世界について聞かされたことがきっかけだった。
2005年1月2日、申さんとParkさんは収容所を囲むフェンスのそばでまきを集めるよう命じられた。作業のすきを見て、申さんは鉄条網を上り、死にものぐるいで逃げた。Parkさんは鉄条網に引っかかって脱出はかなわなかった。
収容所から逃れた後は盗んだコメを売って金にし、国境警備員を買収、中国に逃げた。韓国に渡ったのは約1年前である。
脱出の理由について、申さんは単純に外の世界に興味があったこと、飢えと過酷な労働から逃げ出したかったことを明らかにした。当時は「正義なんてものは知らなかった」し、北朝鮮の体制を暴くつもりもなかった。だが韓国に逃げ、そこで暮らす子どもたちと収容所で暮らす子どもたちの生活を比べてみて、「人権についてより深く知るようになった」のだという。
米国務省によれば、北朝鮮の収容所には今なお15万~20万人がいる。(c)AFP