ミャンマー反軍政デモで死亡の長井さん、 紛争地帯の取材に情熱
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【9月28日 AFP】(9月30日写真追加)大規模な反軍事政権デモが続くミャンマーで27日に銃撃され死亡した日本人ジャーナリスト、長井健司(Kenji Nagai)さん(50)は、これまでにもイラクやアフガニスタンなど、世界各地の紛争地帯で取材に情熱を傾けてきた。両親は、できることなら仕事を変えてほしいと願っていたという。
長井さんは、武装警官隊らによる市民弾圧の現場を撮影中、治安部隊の発砲で死亡した。一連のデモに対する軍政の武力鎮圧で、外国人としては最初の犠牲者となった。至近距離から胸部を撃たれていたとみられることから、日本政府は長井さんの死亡の真相究明を求めるとしている。
ぼさぼさの髪に学者風のめがねが印象的な長井さんは、東京都港区に本社を置く独立系ニュースプロダクション「APF通信社(APF News)」と契約し、日本のメディアの多くが足を踏み入れたがらない世界各地の紛争地帯を専門に取材してきた。
APF通信の山路徹(Toru Yamaji)代表によれば、長井さんは常々「誰も行きたがらない場所でも、誰かしらが取材に行かなければならない」と語っていたという。山路代表は訃報を受け、長井さんの実家に向かった。
28日付けの国内各紙には、長井さんがパレスチナのイスラム原理主義組織ハマス(Hamas)の最高指導者でシリアの首都ダマスカス(Damascus)に在住するハーレド・マシャル(Khaled Meshaal)氏と握手する写真が掲載された。
愛媛県出身の長井さんは、大学卒業後に英語を学ぶために米国に留学。その後、世界各地をライターとして旅するようになり、カメラマンに転向した。
長井さんの生き方を、両親は絶えず心配していたという。
母親の道子さんはAFPの取材に対し、長井さんがここ数年実家に帰っていなかったこと、アフガニスタンに取材に行ったと聞かされたときには、危険なところには行かないよう注意したことなどを明かした。「息子には、そういう場所には行かないよう何度も言いました。でも、止めることはできませんでした。よほどの決意がなければ、ああした場所には行けないでしょう」道子さんは、声を震わせながらそう語った。
今の気持ちについて道子さんは、「息子にもう一度会いたい」とだけ語った。
山路代表がミャンマーのデモ取材を打診したとき、長井さんは別の取材でタイの首都バンコク(Bangkok)にいたという。長井さんはすぐにチャンスに飛びつき、25日にはミャンマー入り。日本のテレビ番組でも、長井さんのミャンマー取材の映像が流れた。
ジャーナリスト仲間によれば、長井さんは人道支援を必要とする国々の取材に情熱を燃やしていたという。ドキュメンタリーフィルムの製作にも携わっており、長期にわたって北朝鮮脱北者の取材にも力を注いできた。
東京都渋谷区に本社を置くジャーナリスト集団、アジアプレス・インターナショナル(Asia Press International)の石丸次郎(Jiro Ishimaru)氏は、長井さんとの思い出を語ってくれた。石丸氏は、中国と北朝鮮の国境付近で5年前に長井さんと出会ったという。
「脱北者の取材には、たっぷり時間をかけ、慎重な態度で臨んでいました。彼は他人が行きたがらないところに行きたがるタイプでした。たとえば、北朝鮮の禁止区域などです。ジャーナリストには珍しい物静かな人で、取材相手も彼にならば心を開いてくれました。他人にはできないことを成し遂げたいと考えていたのだと思います」
日本の主要メディアの多くは、世界の紛争地帯には行きたがらない。しかし、独立系の少数のジャーナリストは、あえてそうした危険な取材に挑戦することで知られている。
2004年にはイラクで、フリージャーナリストの橋田信介(Shinsuke Hashida)さんと、おいの小川功太郎(Kotaro Ogawa)さんが銃撃を受けて死亡している。
長井さんの父、秀夫さんは、息子の死に怒りをあらわにした。
「こんな非道なことはあってはならないと、ミャンマー政府に言いたい。2度とこのようなことが起こらないよう、願っています」(c)AFP
長井さんは、武装警官隊らによる市民弾圧の現場を撮影中、治安部隊の発砲で死亡した。一連のデモに対する軍政の武力鎮圧で、外国人としては最初の犠牲者となった。至近距離から胸部を撃たれていたとみられることから、日本政府は長井さんの死亡の真相究明を求めるとしている。
ぼさぼさの髪に学者風のめがねが印象的な長井さんは、東京都港区に本社を置く独立系ニュースプロダクション「APF通信社(APF News)」と契約し、日本のメディアの多くが足を踏み入れたがらない世界各地の紛争地帯を専門に取材してきた。
APF通信の山路徹(Toru Yamaji)代表によれば、長井さんは常々「誰も行きたがらない場所でも、誰かしらが取材に行かなければならない」と語っていたという。山路代表は訃報を受け、長井さんの実家に向かった。
28日付けの国内各紙には、長井さんがパレスチナのイスラム原理主義組織ハマス(Hamas)の最高指導者でシリアの首都ダマスカス(Damascus)に在住するハーレド・マシャル(Khaled Meshaal)氏と握手する写真が掲載された。
愛媛県出身の長井さんは、大学卒業後に英語を学ぶために米国に留学。その後、世界各地をライターとして旅するようになり、カメラマンに転向した。
長井さんの生き方を、両親は絶えず心配していたという。
母親の道子さんはAFPの取材に対し、長井さんがここ数年実家に帰っていなかったこと、アフガニスタンに取材に行ったと聞かされたときには、危険なところには行かないよう注意したことなどを明かした。「息子には、そういう場所には行かないよう何度も言いました。でも、止めることはできませんでした。よほどの決意がなければ、ああした場所には行けないでしょう」道子さんは、声を震わせながらそう語った。
今の気持ちについて道子さんは、「息子にもう一度会いたい」とだけ語った。
山路代表がミャンマーのデモ取材を打診したとき、長井さんは別の取材でタイの首都バンコク(Bangkok)にいたという。長井さんはすぐにチャンスに飛びつき、25日にはミャンマー入り。日本のテレビ番組でも、長井さんのミャンマー取材の映像が流れた。
ジャーナリスト仲間によれば、長井さんは人道支援を必要とする国々の取材に情熱を燃やしていたという。ドキュメンタリーフィルムの製作にも携わっており、長期にわたって北朝鮮脱北者の取材にも力を注いできた。
東京都渋谷区に本社を置くジャーナリスト集団、アジアプレス・インターナショナル(Asia Press International)の石丸次郎(Jiro Ishimaru)氏は、長井さんとの思い出を語ってくれた。石丸氏は、中国と北朝鮮の国境付近で5年前に長井さんと出会ったという。
「脱北者の取材には、たっぷり時間をかけ、慎重な態度で臨んでいました。彼は他人が行きたがらないところに行きたがるタイプでした。たとえば、北朝鮮の禁止区域などです。ジャーナリストには珍しい物静かな人で、取材相手も彼にならば心を開いてくれました。他人にはできないことを成し遂げたいと考えていたのだと思います」
日本の主要メディアの多くは、世界の紛争地帯には行きたがらない。しかし、独立系の少数のジャーナリストは、あえてそうした危険な取材に挑戦することで知られている。
2004年にはイラクで、フリージャーナリストの橋田信介(Shinsuke Hashida)さんと、おいの小川功太郎(Kotaro Ogawa)さんが銃撃を受けて死亡している。
長井さんの父、秀夫さんは、息子の死に怒りをあらわにした。
「こんな非道なことはあってはならないと、ミャンマー政府に言いたい。2度とこのようなことが起こらないよう、願っています」(c)AFP