『アンネの日記』 時代に翻弄されたフランク一家の未公開文書を公表 - 米国
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【ニューヨーク/米国 17日 AFP】14日、米国の歴史学者が、約30年間未公開のまま眠っていた書簡の束を公表した。文書は、「アンネの日記」の著者アンネ・フランク(Anne Frank)の父親であるオットー・フランク(Otto Frank)が1941年、ナチス支配下のヨーロッパから家族をアメリカへ避難させようとして書いたものだ。
■当時を蘇らせる65におよぶ文書
米国の国立難民支援機関が当時保管していた文書は、2005年半ばに発見された。文書の表面に生年月日の記載がないことから、公文保管員が不思議に思ったことがきっかけとなり、日の目をみることになった。
発見された文書は65にのぼり、当時ナチスによるユダヤ人迫害が広がっていたオランダを離れるためにあらゆる手段を探していたオットーの状況を知ることができる。展示は文書が発見されたニューヨークのYivoユダヤ調査研究所(Yivo Institute for Jewish Research)で行われている。
■生きていれば現在、77歳
「私の知る限りでは、私たちの逃げ場は米国しかないようです。多分ご存知でしょうが、私には娘が2人います。この子達だけでも何とか助けたいのです。」と、綴られた手紙からはオットーの必死な様子が伝わってくる。
フランクの次女であったアンネ(Anne)は、1942年から1944年までの2年間をナチス支配下に置かれていたアムステルダム(Amsterdam)の隠れ家で過ごし、その後ナチス当局に発見され強制収容所に連行された。病気と栄養失調で衰弱したアンネはこの地で息を引き取る。
「もしアンネが無事に避難できていたとしたら、彼女は今77歳を迎えているはずです。おそらく、ボストンで作家にでもなっていたんでしょうね。」と、アメリカン・ユニバーシティ(American University)の歴史学者、Richard Breitman氏は言う。
■命懸けの逃避生活と苦悩の日々
Yivo調査研究所にとって、この発見は大変重要な意味を持つという。「オットー氏があらゆる手段を使ってナチス支配下のオランダから離れようとしたかという事は、今まで知られていなかった事実です。」と、同研究所はコメントした。
オットー氏によって書かれた3つの文書には、家族を米国に避難させるために立てた計画が詳しく記されている。また同氏はキューバ(Cuba)にもビザを申請している。しかし、ビザの発行が承認されたものの、実際に渡航していないことから、本人の元にその知らせが届いたかは不明である。
■有力者にも救い手求めるが・・・
ある手紙の中でオットー氏は、米国の有名百貨店マーシー(Marcy)創設者の子息であり、彼の友人であったネイサン・ストラウス(Nathan Straus)氏にビザの申請金の援助を頼んでいる。
「状況をこれ以上悪くさせない為にも、私にはあなたを頼るしかないのです。」と、オットー氏は書いている。
その他の手紙には、ストラウス氏及び米国に住んでいたオットー氏の義兄が取った、フランク一家の入国ビザを獲得するための努力とその経緯が綴られている。結局米国へのビザ獲得は、実を結ばなかった。
米国は当時まだ参戦していなかったものの、米国入国管理局は、スパイの侵入を懸念して非常に厳しい国家安全対策を取っていた。
■時代に翻弄されたフランク一家
「フランク一家には良いつてがあったものの、当時の状況からしてみればそれだけでは足りず、すでに遅すぎたのでしょう。」と、Breitmanは述べる。
オットーは結局、彼の経営していた会社の屋根裏に家族を隠すことに決めた。密告者の通告で当局に連行されるまでの約2年間、フランク一家はこの場所で暮らすことになる。ホロコーストで生き延びたのはオットー1人のみ。アウシュビッツ強制収容所を1945年に出て、アムステルダムに戻ってきた時、家族はいなかった。
アムステルダムに戻ったオットー氏は、アンネの日記を発見し、1947年に出版した。この「アンネの日記」は現在でも世界中の人々に読まれ、ホロコースト犠牲者の1人として知られているアンネの名を一躍有名にした。
「文書の公開によって、フランク一家の苦難が一層胸に刺さる話として認識されるようになりました。有力なアメリカ人の助けがあったのにも関わらず、悲劇免れられなかったのは残念なことです。」と、調査研究所のCarl Rheins氏は述べた。
写真は2月14日、米国・ニューヨークにて撮影。展示会の様子。(c)AFP/Stan HONDA
■当時を蘇らせる65におよぶ文書
米国の国立難民支援機関が当時保管していた文書は、2005年半ばに発見された。文書の表面に生年月日の記載がないことから、公文保管員が不思議に思ったことがきっかけとなり、日の目をみることになった。
発見された文書は65にのぼり、当時ナチスによるユダヤ人迫害が広がっていたオランダを離れるためにあらゆる手段を探していたオットーの状況を知ることができる。展示は文書が発見されたニューヨークのYivoユダヤ調査研究所(Yivo Institute for Jewish Research)で行われている。
■生きていれば現在、77歳
「私の知る限りでは、私たちの逃げ場は米国しかないようです。多分ご存知でしょうが、私には娘が2人います。この子達だけでも何とか助けたいのです。」と、綴られた手紙からはオットーの必死な様子が伝わってくる。
フランクの次女であったアンネ(Anne)は、1942年から1944年までの2年間をナチス支配下に置かれていたアムステルダム(Amsterdam)の隠れ家で過ごし、その後ナチス当局に発見され強制収容所に連行された。病気と栄養失調で衰弱したアンネはこの地で息を引き取る。
「もしアンネが無事に避難できていたとしたら、彼女は今77歳を迎えているはずです。おそらく、ボストンで作家にでもなっていたんでしょうね。」と、アメリカン・ユニバーシティ(American University)の歴史学者、Richard Breitman氏は言う。
■命懸けの逃避生活と苦悩の日々
Yivo調査研究所にとって、この発見は大変重要な意味を持つという。「オットー氏があらゆる手段を使ってナチス支配下のオランダから離れようとしたかという事は、今まで知られていなかった事実です。」と、同研究所はコメントした。
オットー氏によって書かれた3つの文書には、家族を米国に避難させるために立てた計画が詳しく記されている。また同氏はキューバ(Cuba)にもビザを申請している。しかし、ビザの発行が承認されたものの、実際に渡航していないことから、本人の元にその知らせが届いたかは不明である。
■有力者にも救い手求めるが・・・
ある手紙の中でオットー氏は、米国の有名百貨店マーシー(Marcy)創設者の子息であり、彼の友人であったネイサン・ストラウス(Nathan Straus)氏にビザの申請金の援助を頼んでいる。
「状況をこれ以上悪くさせない為にも、私にはあなたを頼るしかないのです。」と、オットー氏は書いている。
その他の手紙には、ストラウス氏及び米国に住んでいたオットー氏の義兄が取った、フランク一家の入国ビザを獲得するための努力とその経緯が綴られている。結局米国へのビザ獲得は、実を結ばなかった。
米国は当時まだ参戦していなかったものの、米国入国管理局は、スパイの侵入を懸念して非常に厳しい国家安全対策を取っていた。
■時代に翻弄されたフランク一家
「フランク一家には良いつてがあったものの、当時の状況からしてみればそれだけでは足りず、すでに遅すぎたのでしょう。」と、Breitmanは述べる。
オットーは結局、彼の経営していた会社の屋根裏に家族を隠すことに決めた。密告者の通告で当局に連行されるまでの約2年間、フランク一家はこの場所で暮らすことになる。ホロコーストで生き延びたのはオットー1人のみ。アウシュビッツ強制収容所を1945年に出て、アムステルダムに戻ってきた時、家族はいなかった。
アムステルダムに戻ったオットー氏は、アンネの日記を発見し、1947年に出版した。この「アンネの日記」は現在でも世界中の人々に読まれ、ホロコースト犠牲者の1人として知られているアンネの名を一躍有名にした。
「文書の公開によって、フランク一家の苦難が一層胸に刺さる話として認識されるようになりました。有力なアメリカ人の助けがあったのにも関わらず、悲劇免れられなかったのは残念なことです。」と、調査研究所のCarl Rheins氏は述べた。
写真は2月14日、米国・ニューヨークにて撮影。展示会の様子。(c)AFP/Stan HONDA