【4月17日 AFP】優れた報道などに授与されるピュリツァー賞(Pulitzer Prize)を16日に受賞したフランス通信(Agence France-PresseAFP)の写真記者、マスード・ホサイニ(Massoud Hossaini)。輝かしい賞の受賞とは裏腹に、彼の人生はいつも戦争の暗い影と隣り合わせだった。

 旧ソ連軍による軍事介入から2年後の1981年12月10日、アフガニスタンの首都カブール(Kabul)に生まれた。父親が当時の共産主義政権に捉えられたことを期に、後に数百万人に膨らむことになるアフガン難民の1人としてイランへと逃げた。生後6か月の時だった。

 以降、イランで過ごしていたホサイニは、活動家として「改革運動」に参加。この頃に写真家を志し、国内北東部マシャド(Masshad)に出向き、自分の家族と同じ道をたどり国を脱出したアフガニスタン難民の姿を撮影した。

 米同時多発テロ、そしてタリバン政権が崩壊した後の2002年、ホサイニは母国アフガニスタンへと戻り、「ナショナルジオグラフィック(National Geographic)」誌に寄稿するレザ・デジャティ(Reza Deghati)氏が設立した非営利組織「AINA」にて活動を続ける。

 その後、レザ・デジャティ氏の弟で数々の賞を受賞しているフォトジャーナリスト、マヌチェフル・デジャティ(Manoocher Deghati)氏の下で修行を積み、ホサイニは2007年にAFPのフォトグラファーとして働き始める。

 ホサイニは、カブールで前年12月6日に起きた宗教行事を狙った自爆攻撃の直後に撮影した写真で、「ニュース速報写真」部門賞を受賞。ピュリツァー賞委員会は受賞作品について、犠牲者の遺体に囲まれ泣き叫ぶアフガニスタン人の少女の写真は「胸が張り裂けるような画像」だったと評した。この自爆攻撃では、少なくとも70人が犠牲となっている。

 当時、爆心地からわずか数メートルの場所にいたホサイニは、当時について次のように語る。

「煙から逃げようとみんな走っていた。体を起こして手を見たら血だらけだったが、痛みはまるで感じなかった。状況を把握することが自分の仕事だと思い、逃げる人波に逆らって走った」

 インタビューでは、育った場所が違うことから、アフガニスタンをよそ者の目で見ていると語る。「多くのアフガニスタン人は戦争を日常生活の一部としてとらえているが、私が育ったイランではそんなことはなかった。ここでは全てが戦争だ」と述べる。

「私は人々を感じ、共に泣いて、苦しみ、そして動く。私は彼らの一部なのです。昔は、私はただのフォトグラファーで、彼らは人で被写体だった。今は違う。彼らは被写体で私もその一部。彼らが苦しめば私も同じように苦しむのです」

(c)AFP