【11月23日 AFP】ケニア山(Mount Kenya)のふもとのアカシアの木の下で、伝統的な布をまとった6人の老人が集まり、ヤーク語で世間話をしている。彼らはヤーク語の最後の担い手たちだ。

 ヤーク語が絶滅しても、おそらく紙面をにぎわすことはないだろう。ユネスコ(UNESCO)によると、過去3世代の間に世界で200以上の言語が絶滅した。絶滅の危機にひんしているものは2500言語にのぼる。

 歯が抜け落ちてしまったかなりの高齢者も含まれる6人は、ヤーク語が生き残れるよう全力を尽くすことを心に誓っている。ジョハナ・サロネイ・オレ・マトゥンゲ(Johana Saroney Ole Matunge)さん(87)は、「われわれの世代が消える前に知識を子孫に継承する必要がある」と語った。

■20世紀にマサイ人に同化

 ヤーク人はもともと森の中の洞くつをすみかとする狩猟採集民で、養蜂も営んでいたが、20世紀に他部族と混交するようになって生活様式が一変した。

 1930年代からは、勇猛な戦士として知られるマサイ(Maasai)人の文化に同化した。牧畜を営むようになり、マサイ人がまとっているような赤いチェック柄の布を身につけるようになった。

 この過程で、クシ語派のヤーク語とは根本的に異なるナイロティック語系のマサイ語(マー語)が好んで使われるようになった。背景には、自分たちがマサイ人より劣っているという意識があった。

 ヤーク人が自分たちのアイデンティティーを叫ぶようになったのは、つい最近のことだ。

「われわれは社会からつまはじきにされ、マサイからはアイデンティティーを持たない人間と見なされてきた。われわれは一体何者なのかと、自分に問いかけた」と、元小学校教師のマナセー・マトゥンゲ(Manasseh Matunge)さん(48)は振り返った。

■ヤーク語の復活がもたらすもの

 ヤーク語を復活させる試みは、1960年代後半、ナイロビ大(Nairobi University)の客員教授だったドイツ人言語学者ベルント・ハイネ(Bernd Heine)によって行われた。ヤーク人を大学に連れてきて、ヤーク語を教えさせたのだ。しかしこのヤーク人はわずか2週間後に姿を消してしまった。犯罪に巻き込まれて命を落としたと見られている。

 長い空白期間の末、2004年になって、オランダの言語学者のチームが、ヤーク語のマニュアルを完成させた。

 前述のマナセーさんは、地元の学校で週1回ヤーク語を教えている。だが、比較的若いマナセーさん自身はヤーク語があまり流ちょうではなく、生徒に教えるのは基本的な語彙に限られている。

  2009年には養蜂の道具などを展示する小さな博物館も作られた。「マサイ族はハチを怖がるんですよ」とマナセーさんは笑う。博物館はできたが、オランダの言語学チームが6年前に「本物のヤーク語」の最後の話者として特定した3人は、すでに亡くなっている。

 しかしユネスコは絶滅した言語を生き返らせることは可能だとしている。それを目指しているヤーク人コミュニティーは、老人たちによるヤーク語教室開設の資金をフランス大使館に拠出してもらうことに成功した。

 言語がよみがえることで、ヤーク人はアイデンティティーを取り戻し、ひいては現在森林省が管轄している「自分たちの」ムコゴド(Mukogodo)の森を取り返すことも可能になるかも知れない。

 3か月前に公布されたケニアの新憲法は、先祖代々の土地に対する先住民の権利を認めている。ヤーク人は文化的アイデンティティーが武器になるということを学んだのだ。(c)AFP/Boris Bachorz