死の商人から平和の象徴へ、「ノーベル賞」創設秘話
このニュースをシェア
【10月4日 AFP】スウェーデンの科学者アルフレド・ノーベル(Alfred Nobel、1833-96)が、世界で最も栄誉ある賞とされるノーベル賞の創設に至った背景には、あるオーストリア人女性との求人広告を通じた出会いと、誤報の死亡記事があった。
■「女性募集」広告がもたらした出会い
1876年、40代のノーベルは発明によって得た大金で、パリ(Paris)で悠々自適な生活を送っていた。
ノーベル平和賞(Nobel Peace Prize)に詳しい米ジャーナリスト、スコット・ロンドン(Scott London)氏によると、当時のノーベルは容姿に全く自信がなく自己嫌悪に満ちた男で、自分は結婚には値しないと考えていた。また、ダイナマイトという破壊的な爆薬を発明したことにも苦悩していたという。
そんなノーベルがある日、新聞に求人広告を出した。「求む秘書兼家政婦。裕福で知的な老紳士が、数か国語に堪能な熟年女性を募集」という内容だった。実際のノーベルは老紳士ではなかったが、この広告に応募してきたのが、オーストリアの伯爵令嬢で後に平和活動の先駆者となったベルタ・フォン・ズットナー(Bertha von Suttner、1843-1914)だ。
10歳年下のベルタは、すぐに結婚のために退職し、ノーベルの下で働いたのはわずか1週間程度にすぎなかった。だが、2人の友情はノーベルが死去する1896年まで続いた。
ノーベルに宛てた1895年の書簡でベルタは、ノーベルの第一印象を「思考家で詩人。皮肉屋だけどお人好し。不機嫌だけど楽しげで、思考は超人的に飛躍する。愛には熱情的で、人間の愚かさに深い不信感を抱いているが、全てを理解し、無欲な人」と書いている。「出会ってから20年がたっても、この印象が消えることはない」
ノーベル研究者の多くは、ノーベルとベルタの間に男女間の愛情が存在したとの見方には否定的だ。だがロンドン氏は、ベルタは当時ヨーロッパで台頭した平和運動をノーベルに理解させる鍵となったはずで、ノーベルが平和賞を考案するにあたってベルタの存在が影響を与えたことは間違いないと断言する。「なんたって、武器でもうけた資産家と、平和運動の先駆者とが出会ったんです。スリリングじゃありませんか」
■自身の「死亡記事」に恐怖したノーベル
一方、1888年に起きたもう1つの「偶然」も、ノーベルの心に強い影響を与えた。フランスのある新聞が、ノーベルの兄ルードヴィ(Ludvig Nobel)の死亡情報をノーベル本人のものと取り違え、「死の商人、死す」と題した死亡記事を掲載したのだ。
「アルフレド・ノーベル博士: 可能な限りの最短時間でかつてないほど大勢の人間を殺害する方法を発見し、富を築いた人物が昨日、死亡した」――。この記事を読んだノーベルは「戦慄し、以降は自分の死後の評判を非常に気にするようになりました」とロンドン氏は説明する。
「その後、彼はそれまでの考えを変え、資産のほとんどを後のノーベル賞設立のために遺贈することで、平和と発展への自分の憧れについて将来、死亡記事を書く記者が疑いを持つ余地がないよう手を打ったのです」(ロンドン氏)
その死亡記事から8年後、ノーベルは他界し、有名な遺言が公表された。その遺志を基として創設された賞は現在、世界で最も名誉ある賞とみなされている。
ベルタは1889年、小説『武器を捨てよ!(Lay Down Your Arms!)』で平和活動家としての名声を高めた。また、1905年にノーベル平和賞の第1号受賞者ともなった。1914年に死亡したが、それは第一次世界大戦の開戦わずか3か月前のことだった。(c)AFP
【関連記事】
ノーベル賞は時代遅れか?
飛行機の上?真夜中の電話?ノーベル賞受賞者が受賞を知る瞬間
■「女性募集」広告がもたらした出会い
1876年、40代のノーベルは発明によって得た大金で、パリ(Paris)で悠々自適な生活を送っていた。
ノーベル平和賞(Nobel Peace Prize)に詳しい米ジャーナリスト、スコット・ロンドン(Scott London)氏によると、当時のノーベルは容姿に全く自信がなく自己嫌悪に満ちた男で、自分は結婚には値しないと考えていた。また、ダイナマイトという破壊的な爆薬を発明したことにも苦悩していたという。
そんなノーベルがある日、新聞に求人広告を出した。「求む秘書兼家政婦。裕福で知的な老紳士が、数か国語に堪能な熟年女性を募集」という内容だった。実際のノーベルは老紳士ではなかったが、この広告に応募してきたのが、オーストリアの伯爵令嬢で後に平和活動の先駆者となったベルタ・フォン・ズットナー(Bertha von Suttner、1843-1914)だ。
10歳年下のベルタは、すぐに結婚のために退職し、ノーベルの下で働いたのはわずか1週間程度にすぎなかった。だが、2人の友情はノーベルが死去する1896年まで続いた。
ノーベルに宛てた1895年の書簡でベルタは、ノーベルの第一印象を「思考家で詩人。皮肉屋だけどお人好し。不機嫌だけど楽しげで、思考は超人的に飛躍する。愛には熱情的で、人間の愚かさに深い不信感を抱いているが、全てを理解し、無欲な人」と書いている。「出会ってから20年がたっても、この印象が消えることはない」
ノーベル研究者の多くは、ノーベルとベルタの間に男女間の愛情が存在したとの見方には否定的だ。だがロンドン氏は、ベルタは当時ヨーロッパで台頭した平和運動をノーベルに理解させる鍵となったはずで、ノーベルが平和賞を考案するにあたってベルタの存在が影響を与えたことは間違いないと断言する。「なんたって、武器でもうけた資産家と、平和運動の先駆者とが出会ったんです。スリリングじゃありませんか」
■自身の「死亡記事」に恐怖したノーベル
一方、1888年に起きたもう1つの「偶然」も、ノーベルの心に強い影響を与えた。フランスのある新聞が、ノーベルの兄ルードヴィ(Ludvig Nobel)の死亡情報をノーベル本人のものと取り違え、「死の商人、死す」と題した死亡記事を掲載したのだ。
「アルフレド・ノーベル博士: 可能な限りの最短時間でかつてないほど大勢の人間を殺害する方法を発見し、富を築いた人物が昨日、死亡した」――。この記事を読んだノーベルは「戦慄し、以降は自分の死後の評判を非常に気にするようになりました」とロンドン氏は説明する。
「その後、彼はそれまでの考えを変え、資産のほとんどを後のノーベル賞設立のために遺贈することで、平和と発展への自分の憧れについて将来、死亡記事を書く記者が疑いを持つ余地がないよう手を打ったのです」(ロンドン氏)
その死亡記事から8年後、ノーベルは他界し、有名な遺言が公表された。その遺志を基として創設された賞は現在、世界で最も名誉ある賞とみなされている。
ベルタは1889年、小説『武器を捨てよ!(Lay Down Your Arms!)』で平和活動家としての名声を高めた。また、1905年にノーベル平和賞の第1号受賞者ともなった。1914年に死亡したが、それは第一次世界大戦の開戦わずか3か月前のことだった。(c)AFP
【関連記事】
ノーベル賞は時代遅れか?
飛行機の上?真夜中の電話?ノーベル賞受賞者が受賞を知る瞬間