仏フェミニストで人類学者、ジェルメーヌ・ティヨンさんが100歳で死去
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【4月21日 AFP】第2次大戦中には独ナチス(Nazis)に対するレジスタンス活動に参加し、フェミニストとしても著名なフランスの人類学者、ジェルメーヌ・ティヨン(Germaine Tillion)さんが19日、死去した。100歳だった。ティヨンさんはフランスの旧植民地アルジェリアの和平にも貢献した。
2007年5月、ティヨンさんが100歳の誕生日を迎えた際、ニコラ・サルコジ(Nicolas Sarkozy)大統領は「国民全員から親愛の情を込めて」書簡を送り、「人類学、フェミニズム、レジスタンス運動、国外追放、社会的正義のための戦い、アルジェリアの戦争、そしてもちろん多くの著作と研究活動・・・。これまでに美しく重要な人生のすべてをここに書き尽くすことはわたしには不可能だ」とつづった。
■人類学者の洞察力で生き抜いた強制収容所
ティヨンさんは1907年5月30日、フランス中部の裕福な家庭に生まれ、1930年代には駆け出しの人類学者となった。アルジェリアへの興味をかき立てられ、1934年から1940年の間に同国への研究旅行を4回重ね、遊牧民ベルベル人のテントに寝泊まりするなどして現地の文化の実地調査から理解を深めた。
後年、人類学を選んだことを振り返り、「わたしに洞察を与えてくれた。他者の文化を尊重するということを一から教えてくれた」と書き残している。
しかし、後にパリ人類学博物館(Museum of Mankind)の発起人に加わるティヨンさんの人生を決定づけたのは第2次大戦中、ナチス・ドイツによるフランス占領直後から、知識人のネットワークによる対独レジスタンス活動に参加した経験だ。
1942年にゲシュタポ(ナチスの秘密警察)に通じていたある司祭に密告されて逮捕され、翌43年、母親とともにドイツのラーフェンスブリュック(Ravensbruck)女性強制収容所に送られ、45年に母親をガス室の処刑で失った。ティヨンさんは強制収容所から生き抜くために、学者として受けた訓練を駆使し、収容所の出来事をケーススタディとして冷徹にとらえ、戦後、この収容所の体験を2冊の本に書き上げた。
また、収容所時代の1944年10月に書き上げたオペレッタ「Le Verfugbar aux Enfers(The Camp Worker Goes to Hell、地獄へ落ちる収容所労働者」の意)」は、2007年6月に100歳を記念してパリ(Paris)で初上演された。原稿は2005年に発見されるまで60年間、机の引き出しの中に眠っていたものだった。
■アルジェリア和平、女性の権利向上にも尽力
第2次大戦後、ティヨンさんはフランスに対する独立戦争が勃発したアルジェリアに戻り、仏政府に調停役を請われて、国内避難したイスラム教徒のための社会福祉センターを設立。1957年には停戦を模索し、アルジェリア側の戦線を率いた指導者との秘密会議を実現した。
2冊の自伝のほかに専門分野でも多くの報告を発表。北アフリカから東地中海沿岸地域における研究結果をまとめた「The Republic of Cousins: Women’s Oppression in Mediterranean Society(いとこたちの共和国:地中海社会における女性の抑圧)」においては、婚前交渉などで家族の名誉を汚したとみなされた女性が親族によって殺害される、いわゆる「名誉殺人」が公然と行われている事実を紹介した。
数々の賞を受賞したが、レジオン・ドヌール勲章(Legion d’honneur)第一等のグランクロワ章(Grand Cross)を受けたわずか5人の女性の1人でもある。(c)AFP
2007年5月、ティヨンさんが100歳の誕生日を迎えた際、ニコラ・サルコジ(Nicolas Sarkozy)大統領は「国民全員から親愛の情を込めて」書簡を送り、「人類学、フェミニズム、レジスタンス運動、国外追放、社会的正義のための戦い、アルジェリアの戦争、そしてもちろん多くの著作と研究活動・・・。これまでに美しく重要な人生のすべてをここに書き尽くすことはわたしには不可能だ」とつづった。
■人類学者の洞察力で生き抜いた強制収容所
ティヨンさんは1907年5月30日、フランス中部の裕福な家庭に生まれ、1930年代には駆け出しの人類学者となった。アルジェリアへの興味をかき立てられ、1934年から1940年の間に同国への研究旅行を4回重ね、遊牧民ベルベル人のテントに寝泊まりするなどして現地の文化の実地調査から理解を深めた。
後年、人類学を選んだことを振り返り、「わたしに洞察を与えてくれた。他者の文化を尊重するということを一から教えてくれた」と書き残している。
しかし、後にパリ人類学博物館(Museum of Mankind)の発起人に加わるティヨンさんの人生を決定づけたのは第2次大戦中、ナチス・ドイツによるフランス占領直後から、知識人のネットワークによる対独レジスタンス活動に参加した経験だ。
1942年にゲシュタポ(ナチスの秘密警察)に通じていたある司祭に密告されて逮捕され、翌43年、母親とともにドイツのラーフェンスブリュック(Ravensbruck)女性強制収容所に送られ、45年に母親をガス室の処刑で失った。ティヨンさんは強制収容所から生き抜くために、学者として受けた訓練を駆使し、収容所の出来事をケーススタディとして冷徹にとらえ、戦後、この収容所の体験を2冊の本に書き上げた。
また、収容所時代の1944年10月に書き上げたオペレッタ「Le Verfugbar aux Enfers(The Camp Worker Goes to Hell、地獄へ落ちる収容所労働者」の意)」は、2007年6月に100歳を記念してパリ(Paris)で初上演された。原稿は2005年に発見されるまで60年間、机の引き出しの中に眠っていたものだった。
■アルジェリア和平、女性の権利向上にも尽力
第2次大戦後、ティヨンさんはフランスに対する独立戦争が勃発したアルジェリアに戻り、仏政府に調停役を請われて、国内避難したイスラム教徒のための社会福祉センターを設立。1957年には停戦を模索し、アルジェリア側の戦線を率いた指導者との秘密会議を実現した。
2冊の自伝のほかに専門分野でも多くの報告を発表。北アフリカから東地中海沿岸地域における研究結果をまとめた「The Republic of Cousins: Women’s Oppression in Mediterranean Society(いとこたちの共和国:地中海社会における女性の抑圧)」においては、婚前交渉などで家族の名誉を汚したとみなされた女性が親族によって殺害される、いわゆる「名誉殺人」が公然と行われている事実を紹介した。
数々の賞を受賞したが、レジオン・ドヌール勲章(Legion d’honneur)第一等のグランクロワ章(Grand Cross)を受けたわずか5人の女性の1人でもある。(c)AFP