SFの巨匠、アーサー・C・クラークさんの生涯
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【3月19日 AFP】19日に90歳で死去した英国のSF小説の巨匠、アーサー・C・クラーク(Arthur C. Clarke)さんは、小説『2001年宇宙の旅(2001: A Space Odyssey)』などに見られる未来観などで、世界中の人たちの想像力をかき立てた。
英国で生まれ、移住先のスリランカで半世紀以上を過ごしたクラークさんは、「エレクトロニック・コテージ」と呼ばれる建物内にこもり、モニター、無線、キーボードを通じて世界と交流した。
1998年にはSF小説の巨匠としての地位を認められ、英国のエリザベス女王(Queen Elizabeth II)からナイトの称号を授与された。
作家、海中探検家などのキャリアのほか、宇宙や科学の人気を高めることにも貢献したクラークさんは、作家として人の記憶に残ることを望み、1956年から住んでいた第2の故郷、スリランカの平和を願った。
前年12月、クラークさんは「読者を楽しませた作家として、願わくは読者の想像力を広げた作家として思い出してもらえればうれしい」と語っていた。
亡くなるときも新作『The Last Theorem』を執筆中だった。「『The Last Theorem』は予想よりずっと時間がかかっている。最後の小説になるかも知れないが、前にも同じことを言ったことがある」と前年語っている。
クラークさんには、スリランカの平和、地球外生命の証拠、クリーンエネルギーの利用という、3つの願いがあった。
ポリオの後遺症で30年以上車いすでの生活を強いられていたにもかかわらず、90歳の誕生日には「後悔することは何もなく、これ以上の個人的野心もない」としていた。
『2001年宇宙の旅』の脚本を共に書いた映画監督スタンリー・キューブリック(Stanley Kubrick)との関係は切っても切れないが、クラークさんが最初に有名になったのは、第2次世界大戦中に静止衛星の設置条件を解明したときだ。この理論に対しては15ポンドの報奨金が支払われたが、現在では数十億ドル規模の価値がある。
「特許を申請していれば大金を稼げただろうと人々は言うが、(理論の内容が)自分が生きているうちに実現するとは考えもしなかったので、特許を取得しなかった」と語っている。
1917年12月16日、イングランド西部マインヘッド(Minehead)の農家に生まれたクラークさんがSFへの興味を抱いたのは、1930年3月号の米SF雑誌「Amazing Stories」を読んだ、わずか12歳のときだった。
英国惑星間協会(British Interplanetary Society)の初期のメンバーとなったほか、英国空軍の将校としてレーダーの開発に取り組み、戦後はロンドン大学キングスカレッジ(King's College, London)で物理学と数学の学位を取得した。そして1950年、小説を書き始めた。
最初の作品はノンフィクションだったが、1953年に、5作目のSF小説『幼年期の終わり(Childhood's End)』が大絶賛されて経済的に自由になり、海中探検を開始した。これをきっかけにして1950年代にスリランカ(当時はセイロン)に移住し、コロンボ(Colombo)近くのHikkaduwaにダイビングスクールを開校した。
クラークさんは1年のうち数か月を米ニューヨーク(New York)で過ごし、そこでキューブリック監督に出会った。『2001年宇宙の旅』のアイデアはバーで生まれ、キューブリック監督は脚本に取りかかる前に長編小説を書くよう、クラークさんに求めたという。
作品の評価は当初まちまちだったが、すぐにSFの最高傑作としての地位を確立した。クラークさん自身も、静止衛星の理論、テレビシリーズ『スター・トレック(Star Trek)』にアイデアを与えたことと並び、人生で成し遂げた3大成果の1つと評している。
専門知識と想像力にもかかわらず、科学界との関係はぎくしゃくしており、技術論文の大半は成人向け娯楽雑誌プレイボーイ(Playboy)に掲載された。
クラークさんは未来に対する外挿(クラークさんは「予測」という単語を使わなかった)の中で、2030年までに人類がほかの惑星の知的生命体と交信すること、2090年までに不死の秘密が解明されることなどを予見している。
80歳を越えても、『2001年宇宙の旅』の3つの続編『3001年終局への旅(3001: The Final Odyssey)』などを著した。
著名人との交流も楽しんでいる。自宅には前ローマ法王故ヨハネ・パウロ2世(Pope John Paul II)、宇宙飛行士ニール・アームストロング(Neil Armstrong)、チャールズ皇太子(Prince Charles)などと撮った写真が飾られている。
1953年には米国人Marilyn Mayfieldさんと結婚したが、半年で離婚している。(c)AFP/Amal Jayasinghe
英国で生まれ、移住先のスリランカで半世紀以上を過ごしたクラークさんは、「エレクトロニック・コテージ」と呼ばれる建物内にこもり、モニター、無線、キーボードを通じて世界と交流した。
1998年にはSF小説の巨匠としての地位を認められ、英国のエリザベス女王(Queen Elizabeth II)からナイトの称号を授与された。
作家、海中探検家などのキャリアのほか、宇宙や科学の人気を高めることにも貢献したクラークさんは、作家として人の記憶に残ることを望み、1956年から住んでいた第2の故郷、スリランカの平和を願った。
前年12月、クラークさんは「読者を楽しませた作家として、願わくは読者の想像力を広げた作家として思い出してもらえればうれしい」と語っていた。
亡くなるときも新作『The Last Theorem』を執筆中だった。「『The Last Theorem』は予想よりずっと時間がかかっている。最後の小説になるかも知れないが、前にも同じことを言ったことがある」と前年語っている。
クラークさんには、スリランカの平和、地球外生命の証拠、クリーンエネルギーの利用という、3つの願いがあった。
ポリオの後遺症で30年以上車いすでの生活を強いられていたにもかかわらず、90歳の誕生日には「後悔することは何もなく、これ以上の個人的野心もない」としていた。
『2001年宇宙の旅』の脚本を共に書いた映画監督スタンリー・キューブリック(Stanley Kubrick)との関係は切っても切れないが、クラークさんが最初に有名になったのは、第2次世界大戦中に静止衛星の設置条件を解明したときだ。この理論に対しては15ポンドの報奨金が支払われたが、現在では数十億ドル規模の価値がある。
「特許を申請していれば大金を稼げただろうと人々は言うが、(理論の内容が)自分が生きているうちに実現するとは考えもしなかったので、特許を取得しなかった」と語っている。
1917年12月16日、イングランド西部マインヘッド(Minehead)の農家に生まれたクラークさんがSFへの興味を抱いたのは、1930年3月号の米SF雑誌「Amazing Stories」を読んだ、わずか12歳のときだった。
英国惑星間協会(British Interplanetary Society)の初期のメンバーとなったほか、英国空軍の将校としてレーダーの開発に取り組み、戦後はロンドン大学キングスカレッジ(King's College, London)で物理学と数学の学位を取得した。そして1950年、小説を書き始めた。
最初の作品はノンフィクションだったが、1953年に、5作目のSF小説『幼年期の終わり(Childhood's End)』が大絶賛されて経済的に自由になり、海中探検を開始した。これをきっかけにして1950年代にスリランカ(当時はセイロン)に移住し、コロンボ(Colombo)近くのHikkaduwaにダイビングスクールを開校した。
クラークさんは1年のうち数か月を米ニューヨーク(New York)で過ごし、そこでキューブリック監督に出会った。『2001年宇宙の旅』のアイデアはバーで生まれ、キューブリック監督は脚本に取りかかる前に長編小説を書くよう、クラークさんに求めたという。
作品の評価は当初まちまちだったが、すぐにSFの最高傑作としての地位を確立した。クラークさん自身も、静止衛星の理論、テレビシリーズ『スター・トレック(Star Trek)』にアイデアを与えたことと並び、人生で成し遂げた3大成果の1つと評している。
専門知識と想像力にもかかわらず、科学界との関係はぎくしゃくしており、技術論文の大半は成人向け娯楽雑誌プレイボーイ(Playboy)に掲載された。
クラークさんは未来に対する外挿(クラークさんは「予測」という単語を使わなかった)の中で、2030年までに人類がほかの惑星の知的生命体と交信すること、2090年までに不死の秘密が解明されることなどを予見している。
80歳を越えても、『2001年宇宙の旅』の3つの続編『3001年終局への旅(3001: The Final Odyssey)』などを著した。
著名人との交流も楽しんでいる。自宅には前ローマ法王故ヨハネ・パウロ2世(Pope John Paul II)、宇宙飛行士ニール・アームストロング(Neil Armstrong)、チャールズ皇太子(Prince Charles)などと撮った写真が飾られている。
1953年には米国人Marilyn Mayfieldさんと結婚したが、半年で離婚している。(c)AFP/Amal Jayasinghe