仏在住の中国人作家シャン・サ、日本、母国への熱い思い
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【10月23日 AFP】(12月6日一部修正)フランスに暮らし、日本に熱い思いを寄せる中国人作家シャン・サ(Shan Sa、34)が再び、母国中国へその関心を向けている。
シャン・サ(本名Yan Nini)は約30年前、中国が開放政策に着手した頃、家族と共に国を追われるようにパリ(Paris)へ移り、これまでの人生の半分以上をパリで過ごしてきた。やはりフランス語で執筆するダイ・シージエ(Dai Sijie)や英語でのハ・ジン(Ha Jin)など、外国語で書くほかの中国人移民作家と同様に、シャン・サの作品も10歳の頃の第1作目の詩集以外は、フランス語での発表が大部分を占める。
2001年に出版され、仏文学賞の権威ゴンクール賞(Prix Goncourt)を獲得、英語にも翻訳された『碁を打つ女(The Girl Who Played Go)』をはじめシャン・サの作品は中国ではいまだに出版されていない。
新著『午前4時、東京で会いますか?(Shall We Meet in Tokyo at Four in the Morning?)』は、シャン・サが自分のルーツを探った作品。ファッションブランド、シャネル(Chanel)の日本法人、日本シャネルのリシャール・コラス(Richard Collasse)社長との往復書簡をまとめたもので、先にフランス語ではなく日本語で出版された。
■日本に対する熱いまなざし
「外国人として暮らすことをとても楽しんでいる。わたしはオープンで物事を素直に受け入れる見方の持ち主だから、どこへ行っても外国人として生活することが合うようだ」と語るシャン・サは、外国人とは「人々の痛みや、そして時には不合理とも思える反応も理解し、間違いを許すことができる存在」だと言う。
シャン・サの共感は、旧日本軍の残虐行為が記憶の奥深くに刻まれた中国出身の作家にとって、とりわけ微妙なテーマともいえる戦時中の日本にも向けられる。
『碁を打つ女』は、1931年の満州事変以降、日本軍が占領した満州での蒋介石派の中国人少女と日本兵の悲恋を描いた物語。当時の日本人の態度を示すかのように、主人公の日本兵は、純粋な中国文化の後継者とは日本人だけで、日本は中国人に平和と威厳をもたらす救世主だと考えている。さらに、日本人は行動によって輝こうとし、中国人は死によって輝こうとしたが、集団自決の悲壮さは皮肉にも汚されてしまう、性急に死を選ぶのは、恥ずべき敗北だからだと語る。
シャン・サは「伝統、自然への尊敬、規律の厳守」を重んじ継承してきた日本をに敬意を抱いているといい、自らを武士と武士道精神の熱烈なファンだと語る。日本は自分の日常生活を触発する存在で、理屈なしで日本への情熱を感じるともいう。
「日本に対して、個人的な恨みは何もありません。戦争は非難しますが、日本を非難はしない。中国は日本との戦争でとても深い傷を負った。でも、和平が不可能というわけではないでしょう」
■幼少時代を過ごした母国中国への思い
シャン・サはまた、国際的な立場を利用して母国・中国の共産党体制を批判している点で、ノーベル文学賞を受賞した高行健(Gao Xingjian)らと自らの立場を並べて見る。
知識人家庭の娘、そして共産党に追放された祖父の孫として、1989年6月4日の天安門(Tiananmen)事件後、シャン・サは家族と共にパリへ移住し、以来そこで生活をしている。
新著『午前4時、東京で会いますか?』では長年日本に住むコラス氏との書簡で、中国での少女時代の思い出をつづっているシャン・サだが、毛沢東(Mao Zedong)思想に影響された若者たちが学校をやめて紅衛兵となり、国中で暴力に走った1960年代の文化大革命以後の厳しい時代を思い出すのはつらいと語った。
マケドニアなど遠く離れた地域を舞台にした小説を書いてきたシャン・サにとって、最新作は自らの人生に触れる初めての作品となった。シャン・サは中国について一般化することをためらいつつ、「わたしはこう理解しているのですが」と前置きをして語った。「中国人はこの100年間というもの、似たような経験してきました。だからわたしは自分の人生について書きたいとは思わなかったのです。それはとてもつらい物語だから。でも、今回は書けて良かった。この年になってようやく、距離を置けるだけの大人になったのです」。(c)AFP/Kimiko de Freytas-Tamura
シャン・サ(本名Yan Nini)は約30年前、中国が開放政策に着手した頃、家族と共に国を追われるようにパリ(Paris)へ移り、これまでの人生の半分以上をパリで過ごしてきた。やはりフランス語で執筆するダイ・シージエ(Dai Sijie)や英語でのハ・ジン(Ha Jin)など、外国語で書くほかの中国人移民作家と同様に、シャン・サの作品も10歳の頃の第1作目の詩集以外は、フランス語での発表が大部分を占める。
2001年に出版され、仏文学賞の権威ゴンクール賞(Prix Goncourt)を獲得、英語にも翻訳された『碁を打つ女(The Girl Who Played Go)』をはじめシャン・サの作品は中国ではいまだに出版されていない。
新著『午前4時、東京で会いますか?(Shall We Meet in Tokyo at Four in the Morning?)』は、シャン・サが自分のルーツを探った作品。ファッションブランド、シャネル(Chanel)の日本法人、日本シャネルのリシャール・コラス(Richard Collasse)社長との往復書簡をまとめたもので、先にフランス語ではなく日本語で出版された。
■日本に対する熱いまなざし
「外国人として暮らすことをとても楽しんでいる。わたしはオープンで物事を素直に受け入れる見方の持ち主だから、どこへ行っても外国人として生活することが合うようだ」と語るシャン・サは、外国人とは「人々の痛みや、そして時には不合理とも思える反応も理解し、間違いを許すことができる存在」だと言う。
シャン・サの共感は、旧日本軍の残虐行為が記憶の奥深くに刻まれた中国出身の作家にとって、とりわけ微妙なテーマともいえる戦時中の日本にも向けられる。
『碁を打つ女』は、1931年の満州事変以降、日本軍が占領した満州での蒋介石派の中国人少女と日本兵の悲恋を描いた物語。当時の日本人の態度を示すかのように、主人公の日本兵は、純粋な中国文化の後継者とは日本人だけで、日本は中国人に平和と威厳をもたらす救世主だと考えている。さらに、日本人は行動によって輝こうとし、中国人は死によって輝こうとしたが、集団自決の悲壮さは皮肉にも汚されてしまう、性急に死を選ぶのは、恥ずべき敗北だからだと語る。
シャン・サは「伝統、自然への尊敬、規律の厳守」を重んじ継承してきた日本をに敬意を抱いているといい、自らを武士と武士道精神の熱烈なファンだと語る。日本は自分の日常生活を触発する存在で、理屈なしで日本への情熱を感じるともいう。
「日本に対して、個人的な恨みは何もありません。戦争は非難しますが、日本を非難はしない。中国は日本との戦争でとても深い傷を負った。でも、和平が不可能というわけではないでしょう」
■幼少時代を過ごした母国中国への思い
シャン・サはまた、国際的な立場を利用して母国・中国の共産党体制を批判している点で、ノーベル文学賞を受賞した高行健(Gao Xingjian)らと自らの立場を並べて見る。
知識人家庭の娘、そして共産党に追放された祖父の孫として、1989年6月4日の天安門(Tiananmen)事件後、シャン・サは家族と共にパリへ移住し、以来そこで生活をしている。
新著『午前4時、東京で会いますか?』では長年日本に住むコラス氏との書簡で、中国での少女時代の思い出をつづっているシャン・サだが、毛沢東(Mao Zedong)思想に影響された若者たちが学校をやめて紅衛兵となり、国中で暴力に走った1960年代の文化大革命以後の厳しい時代を思い出すのはつらいと語った。
マケドニアなど遠く離れた地域を舞台にした小説を書いてきたシャン・サにとって、最新作は自らの人生に触れる初めての作品となった。シャン・サは中国について一般化することをためらいつつ、「わたしはこう理解しているのですが」と前置きをして語った。「中国人はこの100年間というもの、似たような経験してきました。だからわたしは自分の人生について書きたいとは思わなかったのです。それはとてもつらい物語だから。でも、今回は書けて良かった。この年になってようやく、距離を置けるだけの大人になったのです」。(c)AFP/Kimiko de Freytas-Tamura