【3月18日 AFP】「ポーランド版アンネ・フランク(Anne Frank)」として知られるようになった、あるユダヤ人少女の日記が欧州で2006年に出版されて以来、話題を呼んでいる。

「わたしにとって、これは大事な友人の思い出。歴史的資料ではない」と語るのは、90歳になるスタニスラワ・サピンスカ(Stanislawa Sapinska)さん。彼女のアパートのテーブルの上に置かれた、この日記のさまざまな言語版は、大戦中のホロコースト以来、数十年にわたり続いている友情の証だ。友人のユダヤ人少女ルトゥカ・ラスケル(Rutka Laskier)さんが第二次世界大戦時に書いた日記を63年間、保管してきたという。

 サピンスカさんは2006年に、この日記を『ルトゥカのノート(Rutka's Notebook: A Voice from the Holocaust)』というタイトルで出版した。きっかけは、当時この日記を読んだ彼女の甥の言葉だったという。甥は、『これを、おばさんだけのものにしておくべきではない』と言ったのだ。日記はポーランド語のほか、ヘブライ語、スペイン語、フランス語、英語でも出版された。

 サピンスカさんは2007年、日記の原本をイスラエルにあるホロコースト記念館「ヤド・バシェム(Yad Vashem)」に寄贈している。

■ポーランド版アンネ・フランクが記していた「不吉な未来」

 1939年にポーランドに侵攻したあと、ナチスはポーランド中に強制収容所を建設し、当時、同国にいた350万人のユダヤ人を隔離、そして最終的には虐殺した。第二次世界大戦中にナチスの犠牲となった約600万人のユダヤ人のうち、半数はポーランドに居住していた。

 ナチスの侵攻後、サピンスカさん一家はベンジン(Bedzin)の自宅を追い出された。その後サピンスカさんの自宅周辺は、2万2000人を収容する施設になり、当時14歳だったルトゥカさんが家族とともに収容された。ルトゥカさんは、この収容所で過ごした1943年2月から1944年4月まで日記を付けている。

 アンネ・フランク同様、ルトゥカさんの日記には10代の心のときめきが記されているが、未来に対する悲しい予感についても書かれている。

「まあ、なんてこと(Oh good Lord)…。ルトゥカ、あなたは完全に気が変になってしまったようね。まるで神が存在しているかのように呼び掛けている」。1944年2月5日、ルトゥカさんは自身に語りかけるように書き始める。「わずかに抱いていた神を信じる気持ちも完全に消えてしまった。もし神が存在しているなら、人が生きたまま火炉に投げ入れられたり、まだ小さい子どもの頭が銃弾で吹き飛ばされたり、袋に入れられたり、ガス室に入れられるなんて絶対に許さないはずだ」

 2月20日の日記は、さらに不吉な予感で埋め尽くされている。「日記を書くのはこれが最後のような気がする。外出も許されず、家に閉じこめられたまま。頭がおかしくなりそう」
 
 そして最後の日記が記された4か月後の1944年8月、ルトゥカさんを含め、この収容所に残っていたユダヤ人全員は、ベンジンから約50キロの距離にある、アウシュヴィッツ(Auschwitz)強制収容所へと移送された。

■収容所のユダヤ人少女との友情

 自宅のあったベンジンの収容所に行くことが許可されていたサピンスカさんは時折、収容所を訪れ、ルトゥカさんと友だちになっていた。「ルトゥカはレジスタンス(地下抵抗運動)組織の一員だった。お互いに情報を共有して信頼し合っていた」とサピンスカさんは当時を振り返る。

 この収容所に残っていたユダヤ人がアウシュビッツに送られてから数か月後、サピンスカさんは家族とともに、誰もいなくなった以前の自宅に戻り、隠されていたルトゥカさんの日記を発見した。「日記を読んで涙が出た」とサピンスカさんは語る。「ルトゥカに戻ってきてと心から願ったわ」

 ルトゥカさんの日記が2006年に出版されると、イスラエルで話題となり、その後、新たな事実が判明した。ルトゥカさんの父親は収容所で生き残り、再婚して新しい家族と暮らしていたのだ。日記が出版されたとき、父親はすでに死亡していたが、その娘のザハバ(Zahava Sherz)さんは1度も会うことのない義姉の日記を読むことができた。

 ルトゥカさんは、アウシュビッツに移送されたあと、すぐにガス室に送られたと考えられていた。しかし、先週ワルシャワ(Warsaw)のユダヤ歴史資料館(Jewish Historical Institute)で見つかった資料では、ルトゥカさんが死亡したのはアウシュビッツに移送された数か月後であることが分かった。1943年12月からアウシュビッツにいたZofia Mincさんが、戦後に証言した内容を記した文書が明らかになったのだ。

「わたしはベンジンから来たルトゥカ・ラスケルの隣で眠った。ルトゥカはコレラにかかり、数時間で意識がなくなった。ただの黒い影のようだった。わたしは手押し車に乗せ、ルトゥカをガス室に連れて行った。彼女は感電して即死できるように、有刺鉄線のところまで連れて行ってと頼んできたが、ナチス親衛隊の隊員が銃を持って後ろに立っていたため、何もできなかった」

 サピンスカさんは、ルトゥカさんのガス室での苦しみを知ると、ぐっとこらえるように言った。「かわいそうなルトゥカ。とても苦しんだに違いない。そんな風に死んだなんて、そして彼女がそんなにも死にたかったなんて、なんて悲惨なことでしょう」 (c)AFP/Maja Czarnecka